☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
この瞬間において、
することなど何もありません。
行く場所もありません。
「何者か」になるということもありません。
過去もありません。未来もありません。
今この瞬間に、すべてのものはただあるだけです。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

原文「この瞬間、することはない、行く場所はない、誰かになることはない、過去もない、未来もない、すべてがただある」


んー。
返す言葉がございませんなぁ…
m(__)m

ケイティさんの著書にある言葉のなかでもひときわ印象に残るもののひとつに、
「私は生きられている」
という表現がありました。

私が「『いのち』を生きている」のではない。
「いのち」のほうが、私を「生きている」。
私は「いのち」によって「生きられている」。

「私」が受け身、生きられる側なのです。
なんとも不思議で斬新な表現ですよね。

これは、我々日本人が好んで使う
「私は生かされている」
という表現とはやや異なるように思えます。

これはひょっとしたら、私の個人的なとらえかたなのかもしれませんが、
「生かされている」
というとき、
「『私』という独自の存在が、なにか別個のものによって動かされている」
という感じがします。

「『私』が、『より大いなるもの』によって、『生かされている』または『動かされている』。」
そんな感じでしょうか。

「私」とは操り人形…みたいな感覚です。

「私は生かされている」。
そう言うとき、私には、
「私を生かしているなにものかが持つ『操り糸』」
が見えるような気がするのです。

ここでの「私」は、人形であっても、いろいろと意思があります。
しかしその意思を、操り糸に委ねて「動かされ」、「生かされて」いる…。

いっぽう、
「私は生きられている」
という不思議な表現を思うとき、私には「操り糸」が見えません。

それは、まるで人形が川に流されているようなものです。

人形が流れ流れてゆくさまが、あたかも「生きている」かのように、「自分の意思によって動いている」かのように見える…

しかし、いきいきと「動いている」、つまり「生きている」のは川のほうです。
人形はただ、流されているだけです。

実はこの人形に、意思はありません。
意思をもって動いているようにみえても、それは川の流れです。
意思があるのは実はこの川、つまり生きている主体の「いのち」のほうなのです。

この人形のように「ただ流れている」ことが、「私は生きられている」という感覚なのかな…と思います。

そして、この感覚が、今日のお言葉にある
「することもない、行く場所もない…」
ということなのかなと思いました。 


Android携帯からの投稿