社長という立場にあるひとが決してしてはいけないこと。

それは、対外的な場で自社の人間をけなすことだと思う。


そんなことする経営者って、あまりいないのでは?と思っていたのだけれど、実際わたしが過去に勤めた会社のトップがそうだった。


「本当にうちの社員はぼんくらばかりで・・・」

シャレのつもりか、はたまた謙遜か。どちらにしても、笑えない。(ただし、明らかに優秀な企業に関しては例外かも?でも嫌味に聞こえる)


まあいずれにせよ、たいていの場合、ぼんくら呼ばわりされた人間はやる気がうせるでしょう。もちろん、これは経営者だけではなく上司と部下の関係でも同様なので、注意したいところだ。


もし運悪く、そういったトップと遭遇してしまったらどうしようか。


言われっぱなしで心の中で悪態をつくのも、ひとつの選択肢。だけども、それだとあまりにもお互いに成長がなさすぎる。


理想は、トップに物怖じせず、間違いを指摘することではないかしら。その指摘をどんな受け止め方をするかで、トップとしての価値をも見極めることができると思うわけです。




日本語には、ひとつの単語にいろいろな意味がある。


たまに調べてみると、おもしろい。


現在、生後4ヶ月の娘がいるわたしは、日々、彼女の寝顔や笑顔をみて「いとおしい」と感じている。「いとおしいなあ」と実感し、その意味を調べてみようかなと思った。


その意味は、

1)愛着を感じて大切にする

2)深い愛情をもってかわいがる

3)気の毒に思う。かわいそうに思う。不憫に思う。


1)と2)については、納得なのだが、3)の気の毒に思うって、どうしてまたそんな意味が含まれてくるのかしら。日本語の難しいところだ。


ただ、なんとなく感覚的ではあるけれど、まったく頷けないこともない。


これは、母親になってから感じるようになったのだが、娘の寝顔をみながら「いとおしい」と感じるとき、そこには喜びみたいなものが8割だが、ほんのすこしだけ悲しい気持ちがまざっているからだ。


ひとによりけりだと思うのだけれど、わたしはどちらかというと先を案じてしまうタイプ。かわいい我が子も、この先なんの苦労もなく成長していけるだろうかと、心配になってくるのだ。そして、初めての育児という環境も手伝って、「自分自身が子どもを育てあげることができるのか」という不安も頭をもたげてくるのである。


あまりにも愛情があふれすぎると、大切にしたい一心が強くなりすぎて、わたしのような複雑な心境になるのかもしれない。「いとおしい」とは、じつに奥が深いと思う。



先月の末に、友人のお母さまが亡くなった。まだ60歳になったばかり。わたしの母親と同い年だ。あまりにも早すぎて、実感がわかない。友人は、いわゆる幼馴染という存在で、小さいころから一緒に野山や畑をかけまわった仲だ。そのお母さんということで、言ってみれば第二の母のような人。世の中、良い人ほど早く天に召される気がする。そして、悪い人ほど長生きしてるんじゃないか。そう思って、神さまをうらんでしまった。


病気が発覚したのは、去年の9月。まだ一年も経っていない。若くして一年で死にいたるといえば、分かる人は察するだろう。そう、ガンだった。しかし、最初の段階では手術をすれば完治するということで、周囲は比較的楽観視していた。わたしもそのうちの一人で、お見舞いに行ったあと、これからいろいろ楽しもうねと言葉を交わした。


しかし、半年もしないうちに内臓への転移が発覚。そのあとは、あっという間だった。消化器官をほとんど切除するも、さらなる転移はまぬがれず、日に日にやせていく。その姿を見るのは、本当につらい。なんて声をかければいいのか、本当に分からないのだ。


まるでエネルギーのオーラが、日々弱くなっていくような感じ。その反面で、わたしは誕生したばかりの娘の日増しに強くなるエネルギーのオーラを感じていた。あまりにも対照的で、正直なところ戸惑ったくらいだ。人間は、身体のあらゆる器官が正常に発達し、活力が生まれ、生きている。そんな当たり前のことと初めて向き合ったからかもしれない。


人は、いつ、自分の死を受け止めるんだろう。突然の事故だったら、意識する間もない。病気だったら、闘病生活の中のどこかで限界を知るんだろうか。そのとき、いったいどんな気持ちになるんだろうか。そんなことを悶々と考える数週間だった。夜中になると、決まって考え始める日々。そんな自分の隣には、スヤスヤと寝息をたてる我が子がいる。娘の寝顔を見ては、「いま、ここにいてくれてありがとう」と心の中で何度もつぶやいた。