北九州で起きた保育園児熱射病死の判決で、元職員2名が

有罪となった。子どもを持つ母として、けっして無視すること

のできない事件だった。


驚いたのは、保育園の責任者である園長に保育知識がなく、

子どもを預かる重責を理解していたとは到底いえないという

こと。安全管理に関するマニュアルもなかったという。


2歳の子どもには自分の身を守るためにできることはとても

少なく、まだまだ周囲の大人が守ってやらなければならない

時期だ。にも関わらず、徹底した安全対策がとられていなか

ったということに、憤りを感じずにはいられない。


新しい生をさずかり、子どもを産むということは「奇跡」だと

思う。そして、日々成長していく姿を目にできるのは、このうえ

ない幸せだ。もしも、その幸せが突然うばわれてしまったら…


もしも自分だったら、やり場のない怒りを自分自身にむけて

しまうと思う。なぜ、自分が守ってやれなかったのかと自己

嫌悪に陥るだろう。そこから這い上がるのは、きっと簡単では

ない。


けれど、誰かに預けなくてはならない子育ての現状というの

もある。母親として、何を基準に我が子を安心して任せられる

保育園を見つければいいのだろう。認可のおりた保育園に

入園するのが至難の業という現状を、どうにか改善してほし

い。そして、たしかな安全基準と教育方針のもと、保育園が

運営される世の中にしてほしいと強く願う。


最近、主婦業に徹しているわたしは、だいぶ金銭感覚が

磨かれてきた。これが食べたいから買うといった衝動的

な買い物をすることは滅多にない。いま冷蔵庫にある食

材を活かすには何が必要か、かつどこが安いかを考えな

がら買い物をするようになったのだ。


そんなわたしだけれど、買い物上手と自負するにはまだ

まだだ・・・と反省する出来事があった。


最近、冬のセールに足を運んだこともあり、若干乱暴に

お金を使ってしまった気がしていた(実際は、そんなに

浪費しているわけではない)。その引け目が、手元をくる

わせたのだ。


場所は鮮魚売り場。夫の健康のことを考えて、今夜は

魚にしようと思い立つ。しかし、置いてある魚はすこしば

かり値がはるものが多かった。といっても、価格設定が

間違っているわけではない。それなりの値段だ。でも、

その“それなり”が妙に高いものに感じられ、もっと安い

魚はないかなと物色してしまう。


そして目についたのが、子持ちししゃもだった。なんと、

9尾はいって「138円」!


「こりゃー、買いだね」と思って、迷わずレジへ。安く魚

を買えたことに喜びを感じながら家路を急ぐ。


しかし、どうしてこんなに安いんだ。と、冷静になれたの

はすでに家についてから。よくよく考えてみると、安い。

安すぎる。そこには何か理由があるのではないか。


おそるおそるパックを裏返し、賞味期限を確認。問題なし。

販売会社を確認。国内の企業だ。とそのとき目に入った

のが「生産国」。うっ!中○ではないか。そしてこの価格。

果たして食べても危険はないのだろうか・・・


たぶん、独り身だったら迷わず食べただろう。しかし今

自分が食中毒やらなにかで倒れたら、小さな娘はだれが

面倒をみるのか。大げさかもしれないが、マジメに3分ほど

考えた。


食べるわけにはいかない。それが結論。138円で健康被害

のリスクを負うのは割に合わない。もちろん魚に罪はない。

ごめんなさい。ししゃもさん。次からはもっとよく考えて鮮魚

売り場へ足を運ぶことにしよう。



世界名作劇場シリーズ「愛少女 ポリアンナ物語」では、主人公のポリアンナが『いいこと日記』をつけていた。いいことだけを書く日記。小学校2年生のわたしは、その『いいこと日記』が妙にヒットし、自分もつけはじめるようになった。毎日じゃなくても良く、いいことがあった日だけ日記をつける。そんな肩肘をはらないスタイルが合っていたのだろう。気づけば、高校にあがるころまで書きつづけることができた。


以前、『いいこと日記』の話を同僚にしたところ、彼からの私信メールにはかならず「ポリアンナへ」という見出しがつくようになった。そのエピソードだけ聞くと、仲むつまじい同僚との関係を想像されるかもしれない。もちろん仲良くさせてもらっていたが、知り合ってから1年以上は、ものすごく苦手な人物だった。


苦手だった時期の彼を喩えるならば、「ナイフのような切れ味のオトコ」である。とにかく仕事に妥協がない。おかしいことはおかしいとズバリと言う。当たり前のことなのだが、彼に校正がまわると確実に傷ついてしまう。歯に衣着せぬ物言いとは、まさにこのことか。うっかり「て・に・を・は」のミスでもしようものなら、大変だ。わたしには“プロとしての自覚が足りぬ・・・”と、ものすごい自己嫌悪に陥ってしまう。


コピーライターとして駆け出しのころ、わたしはものすごく疲れ果てていた。就業時間の長さという物理的な理由はもちろん、精神的にも追い詰められていたからだ。当時の原稿は、おそろしくて見ることができない。いま思うと、はちゃめちゃだったような気がする。とにかく納期を守ることで、精一杯だったのだ。


運悪く、そんなわたしの原稿を校正してくれたのが、前述の「ナイフのような・・・」彼である。校正後、彼からかけられた言葉は、「ねえ、本当に大丈夫?」だった。一見すると優しげな言葉だけれど、かけられたほうとしてはたまったものではない。小さなプライドは傷つき、赤面した。


「なにが『大丈夫?』だよ、なにが『本当に』だよ!」と心のなかで悪態をついた。正直、こたえた。ただ、、、そう言われることで、ハタと冷静になった気がする。「本当に大丈夫か?」と声をかけられてしまうクオリティ、自分の様子・・・このままじゃいけないんだなあと、しみじみと痛感。悪態をついた翌日には、反省できた自分がいた。


厳しい言葉は、ときにひとを傷つける。かける場合も、時と場所を選んだほうが良いと思う。でも、ひとの成長にはやっぱり必要なものではないか。わたしだって、あのキツイひと言のおかげで今の自分があるのだから。今なら、そんな彼との思い出を、『いいこと日記』に書けるだろう。ちなみに、その後の彼はずいぶん丸くなった。これも、成長したというひとつの変化だろう。