ロボです。雷が本当に嫌いです。田舎には住めない。


自分にしか出来ないことをしたい、と思うことは傲慢なのでしょうか。私にはわかりません。

やりたいことは相変わらずたくさんあり、それらはほとんど理想的な形を見ないままに捨て置かれたように心に積もっていきます。


わかっています。理想は結局理想でしかないのだと。上手くいかないことばかりだとも。私は恵まれたことに、生まれた環境と条件には見合わないほどの幸運に育まれてきました。受験もとりあえずは失敗しませんでしたし、辛い時に誰もかもに見放されるといった状況を味わうこともありませんでした。

私は、挑戦という挑戦をしてこなかっただけの無難過ぎる人生を、この20年間送ってきたのだと思います。


失うものもほとんどなかったけれど、得るものだってあまりなかった。当然の結果ですね。



思春期を過ぎてなお、私はもどかしさの中に生きる毎日です。自分の明確な居場所がわからなくて、自分に望まれていることがわからなくて、自分が最も得意としていることを活かせる空間を探しあぐねて。

ただただ、時間に押し潰されて、今日もまた誰かから「あいつは何もしていない馬鹿者だ」と後ろ指をさされることを恐れて、雨音に消えようとして。


私は雨粒でも霧でもないから、どうしたってそういうことにはなりません。それでいながら私は、やはりまだまだここに残っていたい。もう迂闊に「熔けたい」だのと思う幼さだけは、捨てたつもりでいたいのですが、この身は、心はどうしてなかなか小さくて、少し詰めただけで内壁の圧迫感を痛がるのです。

そして、それは痛みと勘違いしているだけの、別の何かなのかもしれません。もっと大切な、何か。


ひどく物憂げに始まった文章とて、決して沈痛ではないのです。テレビの音に掻き消された飛沫の主張に耳を傾けるふりをしながら、その実は文明の利器と指先で戯れるだけの、いたって無意味な遊びに貴重な要素を望んで奪われゆく日々なのです。


私には何もわかりません。未来と今がどう繋がっていくのか。過去が今をどう形成していくのか。流動する不可視の、限りなく無機質な生命体の臓物の中で、私はいったい何を残していけるのか。私は生きている。その証を刻みたい。多くに結ばれ、またこちらからも結びたいのです。


否定を重ねて肯定に変わる日を待っているだけなのかもしれません。もう戻れはしないというのに、いつか頭を撫でてくれた、確かに愛した誰かの、その掌のぬくもりを今も求めているのかもしれません。それは、もう帰ってはこないものだというのに。


私は歌いたい。

私は奏でたい。

私は語りたい。

私は紡ぎたい。


いつだって必ず先行する『自分』を、私はきっと、そろそろ抑えねばならないのでしょう。