邦画(ドキュメンタリー以外)を劇場で観ることはほぼないんですが、これはどうしても気になり、行ってきました。
「アディクト」とは「依存症者」のこと。
アルコール、薬物、ギャンブル、買い物…そういったものにのめり込み、自分や周りを傷つけてしまった人達。
その依存症者に傷つけられて、怒りと絶望感に苛まれる家族。
彼らの苦しみと回復のプロセスが短いエピソードで綴られていきます。
そう…1人1人のエピソードが短いので、段々引き込まれる、という感じではなかったんですが、終盤の15分が本当に凄かった!どう凄いかは…観に行って下さいとしか
依存症は、脳の病気で、だから治療が必要なんだけど、健康やお金や人間関係…すべてをぐちゃぐちゃにしてしまう。
何より世間では、依存するのは意志が弱いから、というのが一般的な見方だから、1度発症してしまうと、「ダメな人」「弱い人」認定されてしまい、回復するチャンスも狭められてしまうんですね。
だから、そもそもそんな依存対象に近づかないことだ!ということで、違法薬物なら例のフレーズ、「ダメ!ゼッタイ!」が広まっている訳ですが…。
映画の中では、いわゆる世間の声として「結局快楽のためにやっちゃうんでしょ。自分を律せないなんてダメなやつ。」というような台詞がありました。
依存症になる人とならない自分の間にすごく広ーい河があると思いがちだけど、彼らと自分との間にどんな差があるというのか。
誰だって風邪ひくでしょう?風邪をひいた人にお前が悪いって言うんですか?という言葉も映画では語られています。
きっかけは快楽への興味、かもしれないけど…そもそも、ちょっとやってみようかな、と手を出し、依存から抜け出せないのは、現実と向き合うことが辛いから、思いを分かち合える人がいないから、孤独だから、だろうと思います。
その現実というのは、最初は仕事のストレスや家庭環境ということもあるでしょうが、1度依存症になってしまうと「依存症になってしまった自分」という現実と向き合えなくなるんじゃないかという気がします。
(依存症は、孤独の病であり否認の病だと言われます)
依存者が周りを傷つけ、罪を犯してしまった場合は(それが病気の症状とはいえ)きちんと償いをしないといけない。そして病気の回復のために、自分の人生の棚卸をする必要があります。
また、1度依存症になってしまった人には、完治という概念はありません。
依存対象に再び手を出してしまう行為(スリップといいます)に陥らないために、1日1日を乗り切って、スリップしない日々を積み重ねていく…「やめ続ける」人生を生きていく、ということですね。
例えば、アルコール依存症になった人が心身の調子が戻ったから今後は「節酒」で…でうまくいった例はほぼないというのが通説です(※)。
※ここ数年、「ハームリダクション」という、禁止ではなく量を減らす治療法が出てきているそうですが、リスクもあり、一般的な治療法には至っていません。
閑話休題
高知東生が主演、と思って観てたらラスト近くまで全然出てこなくて、でも最後の語りには本当に心を揺さぶられました。
彼のそばにいるアディクトとその関係者達の、壮絶な群像劇という感じ。
後半、主人公を大勢の人達が待つシーンがしばらく続いて、その時やっと、あーこのタイトルは「ゴドーを待ちながら」からきてるのか!と気づきましたよ(遅い)。
あと印象的だったのは、映画の中盤から、場内あちこちからすすり泣く声が聞こえてきてて…心に刺さる方が多かったんだと思います。
本当に様々のアディクト達が登場してましたから。
自分と彼らの違いって何なのか。
自分は絶対彼らのようにはならないと言い切れるのか。
たくさんの人に観てほしいです。
じんわりヒット中なんですよ!!