ちょっとだけ前説:
このお話は、今はもう三十歳代も半ばに入っているであろう、可愛い悪魔ホリー・ゴライトリーが二十歳の頃のニューヨーク物語です。
「彼女は今どこにいるの?」「ブラジル? アルゼンチン? 日本? それとも・・・・ホリーによく似た彫像、木彫りの顔があつたアフリカ?」
Which Golightly do you like?
On filmization, I heard that Truman Capote wanted Marilyn Monroe but not Audrey Hepburn.
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カポーティ『ティファニーで朝食を』概述
【僕はあまり売れていない小説家。 先日久しぶりに旧友のジョー・ベルから電話をもらい、約5年ぶりに彼に会った。場所はもちろん彼のバーでだ。そのバーは今でもマンハッタンのアップ・タウン、マディソン・アヴェニューと68丁目の角にあった】
【以下のお話は、マンハッタンの友人ジョー・ベルの話にインスパイアーされて思いだしたものだ。 いや、正直に言うと いつも記憶の表面近くに隠していた「ホリーと僕の物語」あるいは「ホリーと僕たちの物語り」なのだ。 当時はアメリカが世界大戦に本格的に参戦しジャップと死闘を繰り広げていた時期だ。そのうち僕にも召集令状がくるかもしれない・・・・ホリーは私生活で、僕は戦争で いやったらしい《アカ》が何となく迫っている*】
*:この小説で、ホリーが畏れている《アカ》とはどうやらアングストのことらしい。芥川龍之介自死の原因となった【ぼんやりとした不安】にも通底? 英語では angst、 科学論文ではドイツ語由来のanxietyという単語が当てられることのほうが多いかも。
[物語]
《ホリー・ゴライトリーとの出会い》
僕は1943年の秋ごろ、その褐色石造り5階建てのアパートに引っ越して来た。初めてのマンハッタン暮らしだった。三十二歳、作家志望でまだ印刷された作品はない。
【カリフォルニア出身の日系人“ I. Y. ユニオシ氏”はアパートの最上階に、僕はホリー・ゴライトリーの真上に住んでいた】
《そのアパートに移って来て一週間ばかり経った頃、二号室の郵便受けの名札入れに いささか風変わりなカードが入っているのが目に止まった》
『ミス・ホリデー・ゴライトリー 旅行中』
《ある夜、とっくに十二時をまわっていたと思うのだが、最上階に住んでいるユニオシさんが階下に向かって怒鳴る声で僕の目が覚める》
「ミス・ゴライトリー! いつも私の部屋の呼び鈴を押されるのは困るんだ。お願いだから、後生だから、合鍵を作って下さい」
「作ってるわよ。 でも作るそばから失くしちゃうもんだから・・・・」
「私は仕事をしている。眠らなくちゃならんのですよ」
「あら、ほんとうにごめんなさいね。かわいい おちびちゃん。これが本当に最後よ。もう怒らないで下さいな、ジャパニーズ」
《僕は興味津々で非常階段での二人のやり取りをこっそり覗いていた。そして、後日分かったことだが、この時彼女は、あと二ヶ月で十九歳の誕生日を迎えるところだった。 彼女は一人ではなかった。後ろから一人の男がついてきた。シド・アーバックという名前だった》
「アーバックさん、ここまで送ってくださってありがとう。そして、お休みなさいね」
彼女は、入口で男を閉めだした。
《しばらくたって、ホリーはユニオシ氏の嘆願を聞き入れたらしく、入り口で彼の部屋の呼び鈴を押すことを止めた。
なんとなれば、それ以降は僕の部屋の呼び鈴を押すようになったからだ。夜中の二時とか三時とか、四時とかお構いなしに》
「ごめんなさいね、ダーリン。・・・・鍵を忘れちゃったの」
ミス・ゴライトリーは、呼び鈴を押す便利な相手という以外には、僕のことなどノー・眼中みたいだった。
*
九月になり、夕暮れの空気にひんやりとした秋の最初の気配が感じられる頃まで我々が知り合いになることはなかった。
ある夜、僕は映画を見てから家に帰り、バーボンのナイト・キャップ(寝酒)を手にベッドにはいっていた。
突然、窓をコンコンと叩く音がした。僕は思わずバーボンをこぼしてしまった。
「下にとってもおっかない男の人が来ているの」
「あなたが、ずいぶんあったかそうに見えたから」
「あなたのこと、フレッドって呼んでもいいかしら? フレッドは私の兄なんだけども」
「私のことを果てしなくずうずうしい女だと思っているでしょう?」
「そんなこと思ってないですよ」
彼女は部屋に入ってきた。
「あなたここで一日中何をしているの?」
「ものを書いているんだ」
「作家ってもっと歳をとっているもんだと思っていたわ」
「ねえ、あなたって本物の作家なの?」
「本物の、というのがどういう意味かによるけどね」
「早い話、あなたの書いていたものを買う人がいるかどうかよ」
「まだ、いない。印刷されたことすらない」
「あなたのことを助けてあげる。兄のフレッドに似ているからよ。あなたの背がかなり高いってことだけだけど」
「・・・・・・」
「当時でも、フレッドは六フィート二インチあったのよ。ただ、彼は少し頭がぼんやりして、考えるのにすごい時間がかかるの。私が家出をしたとき、彼は八年生を三回もやっていたのよ」
「ところで、あなたが書いているもののお話をして下さらないこと。どんなお話なの?」
「いやらしいお話なの?」
「いつか読ませてあげるよ」
「いま読んでみて」
《自作を朗読してくれという誘いに抵抗できる作家はほとんどいないし、まだ書いたものが活字になっていない作家ともなれば、なおさらである。僕は二人分の酒を用意し、向かいの椅子に腰を下ろし、彼女に向かって朗読を始めた。その声は緊張と熱意のために幾分か震えていた。 ひとつの家で一緒に暮らしている二人の女性の話だ。二人の間に、寝た寝ないの、いろいろごちゃごちゃが起こる》
「それでおしまい?」
「それって、単に二人の年をくったレズの女の話でしょ? じゃなきゃ何の話なのよ、いったい?」
自作を朗読するだけでも間違いだったのに、自作を説明する愚までおかすことになってしまった自分を呪った。
「それはそうと、あなたの知り合いに、気立ての良いレズの子っていないかしら?」
「私はルームメイトを探しているわけ。実の話、レズの子って何しろマメなのよね。私って、ほら片付けが全然できないのよ。レズっ気? そりゃあ、ちょっとはあるかもしれない。誰だってちょっとはあるんじゃない? 違うかしら」
「ところで今なん時かしら?」
「朝の四時半だよ・・・」
「今日は何曜日?」
「木曜日だよ」
「木曜日!」
「木曜の朝には八時四十五分の電車に乗らなくちゃならないの。面会時間はすごく厳格に決められているの」
「どこに行くんだい」
「シンシン刑務所よ」
「・・・・・?」
《さっきの朗読のことで彼女に感じていた怒りはどこかに飛んでしまっていた》
「眠たいでしょう。あなた、もう寝ちゃっていいわよ」
「・・・・・・」
「寝ないの? 私の話を聞きたいの? サリー・トマトに会いに行くのよ。」
「あなたも新聞で彼のことは知っているかもしれないわ。ほら、ギャングとかマフィアとかって載っていたでしょ? この七ヶ月の間、毎週木曜日に会いに行って、彼の話を聞いてその内容を覚えて弁護士に伝えるのよ」
「どんな話?」
「たとえば『ハリケーンがキューバに来た』とか『バレルモには雪が降っている』とかね。 簡単でしょ、だから心配することないのよ、ダーリン」
「・・・・・・・」
《このあと僕は疲れて寝ているフリをした》
「どこにいるの、かわいそうなフレッド? とても寒いのよ。風には雪が混じっている」
《僕に話しかけている風だったが、実際はそうではなかった。彼女の頬が僕の肩に載せられた。温かく湿った重みが感じられた》
「どうして泣いているの?」
「何さ もう。 眠ってなかったのね! 覗き屋って大嫌い」
*
翌日の金曜日、僕が帰宅するとドアの外に豪華な花束が、例の『ミス・ホリデー・ゴライトリー、旅行中』という名刺とともに置かれていた。
《その後、彼女は玄関の鍵をどこかで作らせたらしく、僕の部屋の呼び鈴を鳴らすことをしなくなった》
僕は仕事が手につかなくなり、ある水曜日の夜、彼女の郵便受けにメッセージを入れておいた。
「ホリー、明日は木曜日だよ」
翌日の朝、そのお返しに、つたない字で書かれたメモが僕の郵便受けに入っていた。
「思いださせてくれてありがとう。今夜の六時くらいにうちに一杯やりにいらっしゃれるかしら? ちょっとしたパーティーをするの」
僕は六時十分まで待った。それからさらに五分を置いてベルを鳴らした。
ぎょっとするような男がドアを開けてくれた。葉巻とクニーシェのコロンの匂いがした。高いヒールを履いていた。そうでなければ正真正銘の小人だった。
「あの子は今シャワーに入っている」といって隣の部屋を指差した。
「おたく招待客?」
「そうです。上の階に住んでいるんですよ」
「そうかい。間取りは同じようなもんかい?」
「ここよりずっと狭いです」
「そうかい」
《このあと、この寸足らずの小人がO. J. バーマンという名前で、ハリウッドで俳優のエージェントをしていることが明らかになる。 パーティーには部屋に溢れるほどの人が集まってきた。その中には、彼女のパトロンらしきチンチクリンのラスティー・トローラーという男がいた。ラスティーはわずか五歳で孤児となり、億万長者となり、有名人で、たくさんの結婚と離婚を繰り返していた。タブロイド新聞上で脚光を浴び続けていた》
ホリーとラスティー・トローラー?
「あなた、何も飲んでないじゃないの」 彼女は、僕が飲み物を手にしてないのを目に止めてそう言った。
「ラスティー!! 私のお友達に何か飲みものを作ってあげてちょうだいな」
彼女は、いつものように猫を抱きかかえていた。
「かわいそうな猫ちゃん」と彼女は猫の頭を掻きながら言った。
「可哀そうに名前だってないんだから。名前がないって結構不便なのよね。でも私にはこの子に名前を付ける権利はない。私たちはお互いに独立した人格なわけ。もっともこの子は、猫格だけど。 私もこの子も、自分といろんな物事が一つになれる場所を見つけたとわかるまで、私は何も所有したくないの。それがどんなところだかはちゃんとわかっている」と言って彼女は微笑んで猫を床に置いた。
「それはティファニーみたいなところなの」
「といっても私が宝石にぞっこんということじゃないのよ。ダイアモンドが似合うのはきっちり年取った女の人だけなんですもの。だから歳をとるのが愉しみ。でもね、私がティファニーに夢中になるのはそのせいじゃない。ねえ、いいこと。ほら、いやったらしいアカに心が染まることってあるじゃない」
「それはブルーになるみたいなことなのかな?」
「それとは違うの。ブルーっていうのとはね。いやったらしいアカっていうのは、もっとぜんぜんタチが悪いの。怖くてしかたなくて、でも何を怖がっているのか、自分でもわからないの。あなた、そういう思いをしたことある?」
「何度もあるよ。そういうのをアングスト(不安症)と呼ぶ人もある」
「わかったわ。アングストね。そういうとき、あなたはどんなことをするの?」
「そうだな、酒を飲むのもいい」
「アスピリンも試してみた。ラスティーがマリファナが良いと言うのでそれも試してみたわ。でも、ただ意味もなく笑っちゃうだけ。これまで試した中でいちばん効果があったのは、タクシーをつかまえてティファニーに行くことだったな。行くと、とたんに気分がすっとしちゃうんだ。 もしこの戦いが終わったら、私とフレッドと二人で・・・・・」
ラスティー・トローラーがマティーニを持ってやってきた。
「腹が減ったよ」と彼は言った。彼の声には智慧がまわりかねているという印象があった。
「もう少し辛抱することはできないの、ラスティー?」
「君は僕のことが好きじゃないんだ」彼は不満げに言った。
「不作法な人は誰にも好かれないわよ」
ホリーは相手が耳にしたかった言葉を、そのままぴたりと口にしたにちがいない。それはラスティーを興奮させ、同時にリラックスさせた。
しばらくして、僕はホリーに言った。
「君がラスティー・トローラーと結婚するつもりがないとわかって嬉しいよ」
そのときに戸口で異変が持ち上がった。一人の若い大きな女が疾風のごとく部屋に飛び込んで来た。身長は六フィート以上ありそうだ。
ホリーは言った。
「なんであなたがここに来るわけ?」
「あら、あ、あたしこの上でユニオシさんのモ、モデルをしていたの」
《この大きな女はマグ・ワイルドウッドといって、自分が少し“どもる”ことを逆手にとりその癖を強調することで人の心に食い込んでいくというのを特異技にしていた》
マグ・ワイルドウッドはホリーに冷たくあしらわれたので、今度は誰彼となく喧嘩をふっかけたり、ホリーのことを『ハリウッドのクズ女』と呼んだりした。 マグ・ワイルドウッドは荒れてウオッカを がぶ飲みしたものだから、あっという間に酔っぱらってその辺に倒れてしまった。思いのほかパーティーが長くなったこともあり、みんなは彼女にあきれて早々にホリーの所から引きあげた。もちろん、僕も例外ではなかった。
*
《パーティーの翌日。何とあの大きな太っちょの“演技的どもり”の女の子はホリーのところにウォッカで酔ったあげくそのまま泊まったようです。 午後に僕と顔を合わせたとき。ホリーはツルハ薬局の包みを手にしていた。包からは、抗生剤、大正胃腸薬、アスピリン、リゲインなどが見えていた》
「あなた、私大変なの。あの大女が肺炎になりかけてるのよ。私もひどい二日酔いで、その上に例の不安症、アカに見舞われているんだから」
ただホリーは、僕にその見上げた親切心を深く探究する暇を与えてくれなかった。
(ちょっと休憩)
マグ・ワイルドの肺炎も良くなり、ふたりは結構仲良く暮らしている。
物語りとは直接の関係はないが部屋で交わされたホリーと大女のマグ・ワイルドウッドの会話。マグは編物をしながらの。
1.現在戦争に行っているホリーが最も愛している頭の少し弱いお兄さん、フレッドについての会話。
「ねえ、マグ、今は戦時中なのよ。そして戦争が終わったら、わたしはもうこんなところとはおさらばするつもり」
「私にはそんなことはできないな。うちの一族の男たちはみんな立派な兵隊さんになったわ。御先祖のワイルドウッドの銅像は、ワイルドウッドの町の真ん中に堂々と建ってるんだから」
「フレッドも兵隊さんよ。 でもフレッドの銅像がどこかに建つとは思えないわ。でもわかんないわ。よく言うじゃない、頭が弱い人間ほど人は勇敢になれるって。で、頭の弱さにかけてはフレッドはたいしたものだから」とホリーは言った。
「フレッドって、上の階に住んでいる人? あの人が兵隊だとは知らなかったわ。 でもたしかに知恵は足りなそうに見えるわ」
「あの人、アタマが火照ってるだけで、知恵が足りないわけじゃないの。彼がやりたいのは、内側にこもって、そこから外を眺めること。で、ガラスにぴたっと鼻をくっつけている人って、だいたいだいたい間が抜けて見えるものじゃない。でもとにかく、あの人は違うフレッド。私が言っているのは、兄のフレッド」
「あなたは、自分のみ、み、身内を頭がわ、わ、悪いって言うわけ?」
「だって頭がよくないことはたしかなんだから、ほかに言いようがないでしょうが」
2.二人の会話の話題は、マグ・ワイルドウッドの恋人、ブラジル人のホセに代ります。
「それで、彼、ホセはあなたのことを噛む?」
マグは編み目をひとつ飛ばしてしまった。「噛む?」
「あなたをベッドの中で噛むかしら?」
「そんなことしないわ。いけないかしら?」、それから眉をひそめて言った。「でも彼ったら笑うのよ」
「いいじゃない。そうこなくちゃ。ユーモアのわかる人って好きだわ。たいていの男って、ハアハア、ぜいぜい 言うだけだもの」
マグは苦情を呈しようとして、引っ込めた。少し考えてから、その発言を自分に対する賛辞として受け入れた。「ええ、たしかにそうかもね」
「オーケー、彼は噛まない。彼は笑う。そのほかには?」
マグは飛ばした編み目を勘定し、もう一度編み物を始めた。編み針を動かす音、さらさらという毛糸の音。
(休憩終り)
月曜日の朝、階段の下まで郵便物を取りに行ったとき、ホリーの郵便受けのカードに変更が加えられていた。
『ミス・ゴライトリーとミス・ワイルドウッド、ただ今旅行中』
《もしうちの郵便受けに一通の手紙が入っていなかったら、僕はこのカードについて更にあれこれと考えをめぐらせていたことだろう》
ある大学出版局が出している小さな文芸誌からの手紙だった。僕はその雑誌に短編小説を一つ送ったのだが、彼らはそれを気に入ったということだった。
【遺憾ながら原稿料は払えないが、雑誌には掲載される】 と書いてあった。
僕は興奮のあまり、文字通り頭がくらくらした。誰かにそのニュースを伝えたかった。僕は階段を一段置きに駆け上がり、ホリーのドアをドンドンと叩いた。
彼女は眠たそうな目をこすりながら出て来て、僕が差し出した手紙を黙ってゆっくり読んだ。
そして、いかにも つまらなそうな顔と声で。
「これってお金を払ってもらえないんでしょ。私ならこんな話断っちまうけどな」と彼女はあくびをしながら言った。しかし、僕の表情から自分が適切でないことを言ったらしいと察した。
「ああ、そうね。すごいじゃない。まあ、中に入ったら。 今コーヒーを淹れるから。それでお祝いをしましょう。いいえ服を着替えるわ。そしてどこかでランチをご馳走してあげるわ」
彼女は洗面所のドアを開けっ放しにしてそこから話をした。
「あなた、マグ・ワイルドウッドがここに同居することになったことはもう知っているわよね。ルームメイトが要りようで、でもレズビアンがだめとなれば、後はおつむの弱い人を探すしかないじゃないの。洗濯物もとってきてもらえるし」
「ねえ、あなたの小説が採用されてとても嬉しいわ。嘘いつわりなく」
*
《ホリーと一緒にあちこちに行って、いろんなことをしたという記憶が残っている。
でも全体を通してみればその記憶は正確とは言えない。 というのはその月の終りの頃に僕は就職をしたからだ。仕事について詳しく語る気にはならない。生活のための仕事だからだ》
シンシン刑務所を訪れる木曜日でないかぎりホリーはだいたい僕が帰宅するまで眠っていた。その後、夜になって彼女はお出かけのために着替えをした。 相手は、チンチクリンのラスティー・トローラーだけとは限らなかった。彼の他に、巨大女のマグ・ワイルドウッドとハンサムなブラジル人が一緒だった。彼の名前は、ホセ・イバラ=イェーガーといって、母親はドイツ人だった。このグループでは、ホセ・イバラ=イェーガーだけが浮いた存在だった。というのは彼には明確な知性があり、押し出しがよく、真剣に自分の仕事に取り組んでいる人のように見えた。仕事は名言されないものの政府に関係したじゅうようなものであるらしかった。(後日、ホリーはホセ・イバラ=イェーガーと婚約する)
*
《クリスマス・イブに彼女とマグはパーティーを催した。どうやってそんなクリスマス・ツリーを運び込むことができたのか不思議なのだが、ツリーの飾り付けを手伝うことになった。余りにも巨大な木だったので飾り付けのグッズが足りなくなった。ホリーは、ちょっと街へいって風船なんかをパクってくるからといって出かけていった。 そしてほどなく、たくさんの風船なんかを持って帰って来た》
「ポリ公のやつ、ついて来てないでしょ?」
「ベッド・ルームに来てちょうだい。あなたにプレゼントがあるの」 と僕に言った。
実は僕も彼女へのプレゼントを持参していた。小さなもので、それをポケットに入れていた。
美しい四角い鳥籠が、赤いリボンをかけられてベッドの上に鎮座していた。
「ホリー、こんなのって! まさかこれもパクったものじゃ?」
「馬鹿ねえ、プレゼントをそんなふうに手に入れるはずがないじゃない。でも、あなたこの鳥籠をすごく欲しがっていたでしょ?」
「これ三百五十ドルもするんだぜ!」
「そんなのお化粧室にいく時のチップ数回分*よ。でも約束してちょうだい。何があってもこの中に生き物を入れないって」(*:ホリーが「化粧室に行きたいわ」と言えば、周りの男たちが競って五〇ドル出してくれた)
僕はホリーにキスしようとしたが、彼女は片手を前に出して押しとどめた。
「私にもそれをちょうだい」そう言って僕の ポケットの膨らみをトントンと叩いた。
「たいしたもんじゃないんだ」
それはただの 「聖クリストフォロス のメダル」だ。でも少なくともそれはティファニーで買い求めたものだ。
二月も近いある日、僕らは客間で話をしていた。あの巨大なクリスマス・ツリーはいまだにその部屋の大部分を占めていた。そのとき、僕とホリーは取り留めのない会話をしていた。
*
二月にホリーはフロリダのキー・ウエストに避寒旅行にでかけた。連れはチビのラスティー、大女のマグと連れのブラジル人のホセ・イバラ=イェーガーだった。ただ、そこでラスティーが現地の船員と喧嘩をしてボコボコにされ、病院送りにされた。そのとき、マグは日光浴で重度の日焼けで同じ病院に収容された。
「そんなわけで、私とホセは彼らを病院に残して、二人でキューバのハバマに行ったの」
「そんなことをして、マグに何もいわれなかったのかい?」
「私たちがキー・ウエストに戻ったとき、マグは私がずっとホセと寝たはずだと決めつけていたわ」
「そんなこんなで雰囲気は結構緊張したしたものになったわ。 私が、『ホセが、入れはしなかったわ、あるいはひょっとしたら 入れたかも知れないけど、そんなに動かしはしなかったわ』と説明するまではね」
「まさか、そんな話をマグは信じたのかい?」
「信じたに決まっているでしょうが」
「・・・・・・・」
「ところで、あなたも知っている、ハリウッドで俳優のエージェントをしているO. J. バーマンが今こっちに来ているのよ。それでね、あなたの小説が載っている雑誌を渡したの。彼はとても感心していたわ。でも路線に間違いがあるって言ってた」
「黒人と子供しか出て来ないような話は誰も読みたがらない、って」
「バーマンさんは読みたがらないだろうね。たしかに」
「あら、私だって同じ意見よ。あの小説は二回読んだわ。 ガキと黒んぼ。そよそよと揺れる木の葉。いたるところで背景描写ばかり。そんなのつまんない」
「いったいどんなものがつまんなくないのか、君の意見を訊きたいもんだね」
「『嵐が丘』」と彼女は間を置かずに言った。
「でもそれは無茶だよ。不朽の名作に比べられても困るんだ」
「うん、正に名作よね。私は十回も見たわ」
「なんだ、映画か」
「・・・・・」
彼女の頬の筋肉がキッとこわばった。まるで日差しに温められてた石に手を触れているような感じがした。
「人は誰しも、誰かに対して優越感を抱かなくてはならないようにできている。でも偉そうな顔をするには、それなりの資格ってものが必要じゃないかしら」
「僕らは違ったものを求めているわけだから、優越感を持ついわれはないんだ」
「あなた、お金を儲けたくないの?」
「そこまではプランにはいっていない」
「ところで、あなたの小説って最後がどうなるかもわからないままに書いているみたいだわよね。ふたつ いいことを教えてあげる。お金は儲けたほうがいいし、小説はある程度最後を想定したほうが良いわよ。あなたのために鳥籠を買ってくれるような人は、そうたくさんはいないわよ」
「悪かったね」
「ここからドアまでは大体四秒かかるんだけど、きっかり二秒で出て行ってくださらない」
《僕はホリーの部屋を出た後、まっすぐ上に行って、鳥籠を持って降りて来た。そして、彼女の部屋の前にそれを置いた》
翌日の朝、僕が仕事にでかけるとき、歩道のゴミ缶の上に鎮座している鳥籠を目にした。ゴミ収集車が来るのをまっているのだ。
僕は鳥籠を拾い上げ、こそこそと自分の部屋に持ち帰った。
《しかし、そのような条件付き降伏も、ホリー・ゴライトリーを僕の人生から締め出してやるという決意を揺るがすには至らなかった。それほど長い期間ではなかったが、僕は実際に彼女と口をきかなかった。階段ですれちがうことがあっても》
*
ある日、僕は彼女の部屋を覗っている男がいることに気が付いた。年齢は五十歳代に見えた。
「失礼ですが、何かご用ですか?」 僕は思い切ってその男に尋ねてみた。
そう言われても、中年の男は顔色ひとつ変えなかった。
「いやね、ちと助けがほしくてね」
男は、古びた札入れを取り出し中からピンボケの写真を取り出した。
「これが私だ。そしてこれがあの子だ・・・・」
「そしてこれが、あの子の兄のフレッドだ」
僕はもう一度、「あの子」をしげしげと見た。 そして、それには確かにホリーの原型らしきものが見てとれた。
「で、あなたはホリーのお父様なんですね」
「あの子の名前はホリーじゃない。ルラメー・ゴライトリー。私は彼女の夫でドク・ゴライトリーという。馬の医者、獣医だ。テキサスのチューリップの近くで」
「あんた、何か可笑しいかね?」
僕は本気で笑っているわけではなかった。それは神経のひきつりのようなものだった。
「わしはこの五年間、ずっと女房の行方を探しまわっていたんだ。ルラメーの兄、フレッドからの手紙で彼女の居場所がわかったもんで、すぐに列車の切符を買って、ここまで飛んで来た。ルラメーは亭主と子供たちの待っている所に戻ってこなくちゃならんのでよ」
「子供たち?」
「いやいや、彼女が産んだわけではない。それどころか、わしはルラメーに指一本触れちゃせんのだ」
「ただ、彼女は十四歳でわしの妻になることを同意したとき、それがどういうことなのかを十分に承知をしておった。ただ、その後ほどなくして、わしらに黙って家を出て行ったよ」
作りごとにしてはあまりにも法外な話だったが、私は彼の話を信じた。
僕は少し考えてから彼に言った。
「ホリー、あるいはルラメーは昔に比べると少し変わったと思いますよ」
「なあ、あんた。助けが欲しいと言ったのは、あれを怖がらせたくなかったからだよ。手伝ってもらえんかね。わしがここにいることをあれに伝えてもらえんかね?」
僕の小説について口をだされて、ホリー・ゴライトリーとは喧嘩中のこともあり、ミセス・ゴライトリーをその夫に引き合わせるのは愉快なことだろうなと僕はふと思った。
でも、ドク・ゴライトリーの誇りと熱意に溢れた目と、汗の染みついた帽子を見ると、そんなことを思い描いた自分が恥ずかしくなった。
【僕は、階段を降りてホリーの部屋に行きます】
呼び鈴を押すとホリーが出て来た。どうやら彼女は一人らしかった。
「あらあら、誰かと思えば。今は急いでいるから仲直りしている時間はないの、明日にでも平和協定のパイプを二人でまわしましょう。それでいい?」
「いいよ、ルラメー。もし君が明日もこのあたりにいるのなら」と僕は答えた。
「・・・・・・彼があなたに、その名前を教えたのね」
「フレッドなの? フレッド!」 彼女は階段の下に向かって叫んだ。
ドク・ゴライトリーが階段をゆっくりと上がってくる音が聞こえた。
「あぁー、ルラメー! そんなにがりがりに痩せっちまって!」
「ハロー、ドク! ほんとにドクなのね!」
「ハロー、ルラメー。夢みたいだ」
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「彼、ドクと離婚したのかって? 離婚なんてするわけないでしょうが。 そのとき私は十四歳だったのよ結婚もできてないわよ」
その後、僕らはジョー・ベルのバーに腰を据えていたのだが、ジョーは気の進まない顔で注文を受けてくれた。
ホリーは、早朝、テキサス州チューリップ行のバスに(元夫?の)ドクを乗せた。
「ドクは私のことを心から愛しているのよ。年寄りでむさくるしく思うかもしれないけど、彼の心は誰よりも澄んでいるのよ」
「私がもう十四でもないし、ルラメーでもないってどれだけ言っても通じなんだ。・・・でも最後にはお互いに涙を流しながら別れたわ。 でその時わかったんだけど、私って今でもルラメーそのものなのよ」
ジョー・ベルはいかにも面白くなさそうに、僕らの前にマティニーのおかわりを置いた。
ホリーはマティニーのグラスを掲げた。
「ドクの幸運を祈りましょ。 そしてね、今バスに乗っているドクに ひとこと言わせて。『空を見上げているほうが、空の上で暮らすよりはずっといいのよ。空なんてただのからっぽでだだっ広いだけ。そこは雷鳴がとどろき、ものごとが消え失せていく場所なの』」
*
その後しばらくしてテキサス州チューリップのドクから彼女のもとに電報がきた。
「ふれっどは カイガイノセンチデ シボウ かぞくはヒタンニクレテイル いさいはフミニテ ドク」
ホリーは一度の例外は別にして、二度と兄フレッドの話をしなかった。
彼女の髪は黒みを帯び、体重も増えたようだ。着るものにも気を配らなくなった。レインコートの下は何もつけず近所のデリカテッセンまで買い物に行く姿が見られたものだ。僕だけが気付いていたのではあるが。
*
〈以下、めもりー不足〉
彼女と同居していた大女のマグが、何と喧嘩で半身不随にされたチビのラスティーと結婚して彼女の元を去り、シャイなブラジル人、ホセ・イバラ=イェーガーが彼女のところに越して来た。
郵便箱に付けられていたマグ・ワイルドウッドの名札が、彼の名札に変えられた。
『ミス・ゴライトリーとミスター・ホセ・イバラ=イェーガー、ただ今旅行中』
ホセは週に三日をワシントンで過ごす外交官だったから、ホリーは 一人でいることが多かった。
ただ、彼女はこれまでになく家庭的になり幸せそうに見えた。
彼女はポルトガル語さえもマスターしようとした。僕が遊びに行くと、彼女の部屋には『スピード・ラーニング』やら『シドニー・シェルダンの【ゲームの達人】や【追跡】』のカセット・テープが散らばっていた。
しかし、そのときホセはまだ 彼女に結婚の話を持ち出してはいなかった。
以下はホセに関するホリーの思い出話:
「でもなんといっても彼は、私が妊娠していることを知っているの。そういうことなのよ、ダーリン。月のものが もう六週間もないんですもの」
「どうしてそんなに驚くわけ? 私、ちっとも驚かなかったわ。 ホセには少し黒人の血が混じっているから、黒んぼの子がキラキラした緑の眼をして産まれてきたら可愛いでしょうね」
「十四歳で結婚したドクのことは別にして、ホセは私が生まれて始めて巡り合った、まっとうなロマンスの相手なの」
「もちろんホセが私にとっての究極の伴侶というわけじゃないわ。世間の目をいちいち気に病むし、一日に50回もお風呂に入るの。男はちょっとぐらい臭いがするもんだって、私なんかは思うんだけどね」
「結婚ってどこまでも自由なものであるべきよ。相手が男だろうが女だろうが。あるいは―――たとえば、もしあなたが競走馬と結婚したいんだと言い出しても、それが変だなんてちっとも思わないな。これ、ほんとに真剣に言っているんだから」
「不正直な心を持つくらいなら癌を抱え込んだほうがまだましよ。癌はあなたを殺すかもしれないけど、『不正直』は間違いなくあなたを殺すのよ」
*
夏が終わり、秋がまた巡ってこようとする最後の何週間かのことは、ずいぶんおぼろげにしか思いだせない。
ことが起こったのは九月三十日、たまたま僕の誕生日だった。家族が祝いの金でも送ってくれないものかと、外で郵便配達を待ち受けていた。
「一緒にいらっしゃいよ。 公園に行って、二人で馬にでも乗って、のんびり一周しましょ?」
彼女はお腹をポンポン叩き、まだ平らであることを強調した。
「お世継ぎを失うつもりはないのよ。でも、私にとってお馬はとても大切なの。私のお馬さんに別れを告げないでここを後にするわけにはいかないじゃない」
「別れを告げる?」
「次の次の土曜日にね。ホセが航空券を買ったのよ。 マイアミで飛行機を乗り継いで、アンデスを越えるの。 タクシーってね」
「そいつは無茶だ。何もかもほったらかしにして、あっさりどこかに行っちまうなんて」
「私がいなくなって、淋しがってくれる人なんて、どこにもいやしない、一人の友だちもいないんだもの」
「僕がいるじゃないか? それに君が木曜日に面会に行っている刑務所に入ってる気の毒な刑務所のサリー・トマトさんも」
「サリーおじさんのことは好きよ。彼は私がよそに行くって言ったら心から喜んでいたわ。それに・・・・」と言って彼女はため息をついた。
「サリーの弁護士、あの太っちょの弁護士オショーネシーが五百ドルを送ってきたわ。これは、サリーからの結婚祝いね。ただ、公安当局に私がサリーの本当の姪でないとばれたら大変だけどね」
「ところで、リオのホセさんは、君が十四の時から結婚してるって知っているのかい?」
「いったい何のつもりなの! 私の気分を悪くしたいってわけ?」
「あの結婚は法律にかなっているわけがないじゃない。わたし、まだ十四だったのよ」
「ねえあなた、もし誰かにそんなことを一言でも洩らしたら、足の指を縛って天井からつるして豚のエサにしてやるからね」
馬の厩舎はセントラル・パーク、ウエストサイドの六十六丁目にあった。
僕のための馬は脊柱の湾曲した年老いた牝馬を選んでくれた。
「この馬なら大丈夫、ゆりかごよりも安全だから」
ホリーの銀色の毛並みの馬が先に立ちセントラル・ウエスト・パークの通りをゆっくりと渡り、乗馬道路に入った。
「ほらね。素敵な気分でしょ!」
ジャングルで待ち伏せする原住民よろしく、一群の黒人の子供たちが飛び出して来て石を投げ、木の枝で僕の馬の尻を突いた。馬は気が狂ったように走り出した。
《彼女は僕の後をずっと追いかけてきて、その蹄の音が僕の耳にも届いていた。馬が真昼の車通りの中に飛び出すと、タクシーやバスが「キー」という音をたてて止まった。馬も急停止したものだから、僕はしがみついていた馬の背からドスンと落ちてしまった》
警官はかんかんに怒りながらも、同情的になり
「馬は戻しておいてあげるから」と言ってくれた。
【実は、このときの騒ぎでホリーのお腹の子どもは、非常に不安定な状態になってしまった】
その日の夕方、ホリーの顔が多くの新聞の一面を飾った。 それは昼間の暴走した馬の件ではなかった。
『麻薬スキャンダルでプレイガールが逮捕』『麻薬密輸の女が逮捕』『暴かれた麻薬組織、噂の美女が拘束』
その中で、彼女ホリーは男の刑事と、不細工ないかにもレズビアンという感じの 太った女刑事に挟まれている写真が掲載されていた。
新聞の記事は彼女が【麻薬シンジケートの通信役】としての機能を果たしていたのでは、と報じていた。
新聞記事には、<ホリー、自らの麻薬依存を認める>という小見出しがあった。
記事;「記者たちに、あなたは麻薬を使用してますかと質問されると、ミス・ゴライトリーは微笑みをうかべながら答えた。『マリファナなら少しやったことあるわ。ブランディーよりずっと害がないのよ。それに安いし』」
【この一連の記事にはひとつ大きな誤りがあった。彼女は自室のアパートメントで逮捕されたのではなく、僕の部屋で逮捕されたのだ】
《男の刑事とブスのレズ刑事が踏み込んできた時、僕はバスルームでほとんど裸になり、ホリーから湿布剤の塗布を受けていたのだ。レズの刑事は羨ましかったのか、恨みでもあるかのようにホリーの顔面をひん曲がるほど引っ叩いた》
二人の警官に連行されるとき、ホリーは
「お願い、猫にご飯をあげてね」
*
その日の夕方にバーのマスター、ジョー・ベルが興奮して新聞を振りまわしながら姿を見せるまで、僕はそれが深刻な話だとは思っていなかった。
「あんたその記事を本当だと思うのかい? 彼女、そんな胡散臭いことに巻き込まれていたんだと?」
「ああ、本当のことだよ。ただ彼女は何も知らいない。言われた秘密のコードを刑務所から外へと伝えていただけさ」
「あんた、ずいぶん落ちつき払っているじゃないか。彼女これで十年は喰らいかねないんだぞ」
《ジョーベルは手をつくしてホリーの友人たち、ニューヨークでいちばん腕のいい弁護士などに手を回した》
*
《でも翌朝になってもホリーは帰って来なかった。非常階段を使い僕がホリーの部屋に行ってみると、ホセに似た男がスーツ・ケースに荷物を詰めているのが見えた。目が合いお互いに相手を空き巣狙いと誤解したものの、僕が窓を開けて中に入ると、その男は案外すんなり部屋に入れてくれた》
「ホセはどこにいるのですか?」と僕は尋ねた。
「ホセは私の従兄弟。あれは、これをお友達に残すようにと、わたしに頼みました。お願いされていただきますか?」と男は変な英語で答えた。
封筒にはこう書かれていた。
「ミス・H・ゴライトリー様。謹言」
「お願いされましょう」と僕は彼に言った。
僕はその手紙を引き受けた。捨ててしまう勇気も持ち合わせていなかったからだ。「ひょっとして、ホセについて何か知らない?」と後日ホリーに聞かれたときに知らん顔をしている勇気もなかった。
そういう状況がもたらされたのは、まさに二日後の朝だった。
僕は病院の、彼女のベッドの枕元に座っていた。病室にはヨードチンキとおまるの悪臭が漂っていた。(臭い記憶:子供の頃、屋根から落ちて骨折したおじさんのお見舞いに行かされた北の街、K市の日赤病院も同じだった。臭い記憶って意外に頑固。海馬?扁桃核?)
《逮捕されたその夜から、彼女はずっとこの病室に臥せっていた》
「よく来てくれたわね、ダーリン」
「跡取りを亡くしてしまったわ」
「ねえ、冗談抜きで私の命も危なかったのよ」
ホリーが僕にホセの消息を尋ねたのはそのときだった。
僕が渡したその手紙を目にしたとき、彼女は目を細め、唇をぎゅっと曲げ、小さな厳しい微笑みを作った。
それは「親愛なる君に」で始まっていた(注;ホセは英語ネイティヴではない)。
「親愛なる君に。君がほかの人たちとはまるで違うとは知りつつも、私は君を愛していた。しかしよろしく理解してもらいたいのだ。私のような信仰と職業を持つ男が妻としたいと望む像から、いかばかり君がほど遠いものであったかという事実を、このような粗暴な、公然たるかたちで見いだしたときの、私の絶望のほどを。君が現在置かれている汚辱について、私は心から強く悼む。そして君を取り巻いている糾弾に、更なる私の糾弾を加えようという心持は微塵もない。だから君の方も、私のことを糾弾しない心持でいてくれればと希望する。私には守らなくてはならない家名もあるし、私の評判もある。そしてそのようなものごとが関連してくるとき、わたしは卑怯者にある。私のことは忘れてもらいたいのだ。美しい君。私は故郷に戻ってしまう。そして神様が常に君と、君の子供とともにいることを祈っている。それがまっとうな神様であることを祈っている―――ホセ」(村上春樹訳そのまま)
「ある意味では正直な手紙といえる。心に迫るものさえある」と僕は言った。
「心に迫るですって? とんでない話だわ、そんなの!」
「少なくとも、彼は自分が卑怯者であることを認めている」
「私は彼を愛していたのよ。あのネズミ野郎を」
《病室の入院患者たちは、ホリーの深刻な病状を感じとってはいるものの彼女の奇抜な言動に興味一杯なのです》
「あなたの乗馬の腕が最悪だったから助かったわけ」
「おかげで流産よ」
「でも私はね、あのブスのレズ女にひっぱたかれたせいでこうなったんだと言いたてて、警察をびくつかせてやったのよ。私はあいつらをいろんな罪で告訴することもできるっていうわけ。不当逮捕の件も含めてね」
「土曜日の朝にここを抜け出して、銀行とか、アパートメントに寄ってアイドルワイルド空港* に向かうわ。そこで予約されている飛行機に乗るわ。チケットを無駄にはしたくないのよ。 それにまだブラジルに行ったことがないんですもの」
*:現在ジョン・F・ケネディ国際空港(JFK International Airport)として知られている。
「でもホリー、君は無実なんだから、ここで踏ん張って頑張らなくちゃ」
「ガンバレ、負けるな、フレー・フレー。そんなの誰でも言えるわ」
看護婦が足音を忍ばせて部屋に入って来て、面会時間は終わりましたと告げた。
「もうひとつお願い。私の部屋を引っ掻き回して、あなたがくれた聖クリストフォロスのメダルを見つけておいて。旅行にはそれが必要だから」
*
【ホリーは病院を抜け出します】
《金曜日の夜、空は赤く染まっていた。雷も鳴っていた。彼女の出発する土曜日には、街はスコールに見舞われた》
僕が嬉々として、飛行機は飛び立たないよ、と説得しても、彼女は旅支度を続けた。
彼女は病院を抜け出し、銀行に行き、そのあとジョー・ベルのバーに直行した。
ジョー・ベルは僕の所にもきて、彼女の部屋から持って来て欲しいものを伝えて来た。
《宝石、ギター、洗面用具、百年物のブランディー、猫;引っ掻くので注意せよ》
僕は、ホリーに言われた、聖クリストフォロスのメダルやたくさんの物をスーツケースに詰め込んだ。ネコはピロー・ケースに大変な思いをしながら入れた。手が血だらけになってしまった。
やっとの思いでジョー・ベルのバーにたどりついた時、その犯罪者は僕に言った、
「なんなのよ、ずいぶん時間がかかったわね。それでブランディーは持って来てくれた?」
猫は外に出されるとひょいと跳び上がって、彼女の肩に鳥のようにとまった。
「ねえ、ベルさんグラスを三つ下さいな。乾杯よ」
「二つにしてくれ。あんたの愚かしさに乾杯なんて、まっぴらだ」とベルは言った。
「乾杯ぐらいいいじゃないの?」
「そんなに地獄に行きたけりゃ、ひとりで勝手に行きゃあいいさ。俺は、これ以上の手助けはしたくないね」
そう言っているうちに、運転手付きのリムジンが店に横付けされた。
僕は思った。
「やれやれ、この男は本当に警察に通報したんだ!」
しかし、ジョーは打ち明けた。
「心配ない。キャデラックのハイヤーだ。俺が呼んだ。空港まで乗っていけばいいさ」
「ご親切にありがとう、ベルさん。ねえ、こっちを向いて」
「ふん!」
リムジンの運転手は沈着不動の人物で、でたらめに詰められた荷物を極めて丁寧に受けとり、車中でホリーが着替えを始めても顔色ひとつ変えなかった。
途中どこかのスパニッシュ・ハーレムの道端で車は止まった。みるからに荒んだ地域だ。
「ねえ、どう思う? このあたりって、お前にお似合いじゃない。さあ、お行」
「行きなさいって言ったのよ! さあ」と言ってドアをバタンと閉めた。
車が少し進んだとき信号が赤になった。 ホリーは気が狂ったように車を飛び出しもと来た道を駈けだした。
「猫ちゃん、どこにいるの? ほら猫ちゃん、どこなの?」
猫はもう見つからなかった。
僕は彼女に約束した。
「あとでここに戻ってきて、猫を必ず見つけるから。猫の面倒は僕が見るから」
「ごめんなさいね、運転手さん。行ってちょうだい」
*
「トマトの愛人行方不明」「麻薬事件に絡んだ女優、ギャングに消された?」「逃亡中のプレイ・ガール、行先はリオ?」
ただ、彼女をアメリカに連れ戻そうという動きは、どうやらなかったようだ。
クリスマスの日にサリー・トマトが、シンシン刑務所内で心臓麻痺のために死んだときに、ホリーの件はもう一度ニュースとして取り上げられたが、それだけだった。
*
【春になって葉書が届いた。鉛筆の走り書きで、サイン代わりに口紅のキスがあった】
「ブラジルはぞっとするようなところだったけど、ブエノスアイレスは最高。 ティファニーほどじゃないけれど、それに近いかもね。私はすごく素敵なセニョールと仲良くなったの。愛? おそらくは。とにかく住まいを探しているところ(セニョールには奥さんと七人の子供たちがいるので)。 住所が決まったら知らせます。深謝感佩」
しかし住所は、もしそんなものがあったとしてもだが、届かなかった。そのことで僕はがっかりした。彼女に知らせたいことが山ほどあったからだ。
僕の短編小説がふたつ売れた。・・・・何よりも知らせたかったのは猫の消息だった。僕は約束を守った。そう、とうとう猫を見つけ出したのだ。何週間もかけて、スパニシュ・ハーレムの通りを歩いて。
雨の窓辺、猫はいかにも温かそうな部屋の窓辺に鎮座していた。猫はどんな名前で呼ばれているのだろう、と僕は思った。今ではきっと彼にも名前が与えられているはずだ。 そしてきっと猫は落ちつき場所を見つけることができたのだ。 ホリーの身にも同じようなことが起こっていればいいのだがと、僕は思う。 そこがアフリカの掘っ立て小屋であれ、なんであれ。
[おしまい]
質問:ホリーは幸せになったと思いますか?
[使用書籍]
1.ティファニーで朝食を (新潮文庫) 文庫 – 2008/11/27
トルーマン カポーティ (著), Truman Capote (原名), 村上 春樹 (翻訳)
2.ティファニーで朝食を (新潮文庫 カ 3-1) 文庫 – 1968/7/1
3.ティファニーで朝食を [英語版ルビ訳付] 講談社ルビー・ブックス 新書 – 1999/6/10
英語版 トルーマン カポーティ (著)





