村上エッセイ「朝日堂の逆襲」より、『学習について』村上が早稲田大学で得たものは?

 

日本の大学でも、「短編小説の書き方」とか、「村上春樹の小説の構造」「短編小説と長編小説の違い」みたいなカリキュラムが、仮にあれば是非聴講してみたい。いわゆる文科系の大学で、文学に関する講義を受けることがわたしの夢です。

 

最近の大学では、「年間(半期)の講義計画・内容」みたいな結構詳細な書類の提出が要求されたりして、先生も大変みたいです。「シラバス」って言うの? 

 

学生が、予めそれを読んで講義内容を予測して予習してきたり、先生への質問を考えてきたりができる(涙が出るくらい)すばらしいシステムなのです。

 

 

 

本文:

世の中には大きくわけて「人にものを教えるのが好き・得意な人」「人からものを教わるのが好き・得意な人」がいると思う。もちろん両方とも得意な人もいるし、両方とも不得手という人もいるだろうが、おおまかに言えば、最初のふたつに分けられるはずである。

 

僕はどちらかといえば「教わるのが好き」な方のタイプで、人に何かを教えるのはまったく不得手である。だから講演の依頼とかカルチュア・スクール「小説作法講座」講師の依頼とかがあってもいつも辞退させていただいている。世の中で何が不幸かといって、教えるのが不得意な人間が他人にものを教える立場に置かれることくらい不幸なことはない。だいたい僕に小説作法を教えられた人がその先いったいどういう小説を書くのだろうと考えただけで頭がかなりぐらぐらしてくる。

 

教えるほうも不幸かもしれないけれど、教わる方だって相当不幸である。

 

アメリカの大学には「創作科(クリエイティブ・コース」というのがあって、ここでは作家が学生たちに小説の書き方を教えている。僕も実際に見たわけではないので正確なことは言えないけれど、だいたい十人以内くらいの生徒が週に一回集まって自分の書いた短編小説を発表したり、それについてディスカッションしたりするみたいである。そして教師である作家が生徒の作品をチェックして、書き直すためのアドバイスを与えるわけである。

 

このシステムの良さは生徒がプロの作家と触れあえ、実践的なアドヴァイスを受けられることと、作家の収入が安定することにある。

 

教師としての仕事量はそれほど多くないから、作家は余暇を自分の創作にあてることもできる。こういうシステムが教育手段としてどれくらい有効なのかは僕には判断できないけれど、日本の大学にも少しくらいはこのようなコースがあってもいいのではないかと思う。

 

僕にはとても無理だけれど、教えるのが得意な作家と教わるのが得意な生徒が合体すればそれなりの効果は生まれるはずである。

 

「大学の教室なんかで小説の書き方が学べるものか」という意見はやはり一面的に過ぎると思う。

 

人は―――とくに若い人々は―――あらゆるところから何かを学んでいくものだし、その場所が大学の教室であったとしても何の不都合もないはずである。

 

もっとも僕自身は学校というものがあまり好きでなく、ろくに勉強もしなかったし、どちらかいえばかなり反抗心の強い生徒だった。

 

中学校については教師になぐられたことしか覚えてないし、高校時代は麻雀をやったり女の子とあそびまわったりしているうちに三年が終わり、大学に入れば大学紛争で、それが一段落したころには学生結婚し、その後は生活に追われてという有り様で、考えてみれば腰を落ち着けてじっくり勉学に励んだという覚えがまったくない。

 

とくに早稲田大学文学部には七年も通ったけれど―――これは自信をもって言えることなのだが―――何一つとして学ばなかった。

 

早稲田大学で得たものといえば今のつれ合いだけだが、女房を見つけたからといってそれが早稲田の教育機関としての優秀性を証明していることにはならない。

 

僕が物事を教わるのが好きになったのは大学を出ていわゆる「社会人」になってからである。あるいはそれは学生時代に目いっぱい遊んだからかもしれないし、学校という制度がもともと性格的に不向きだったのかもしれない、あるいは僕が自発的に何かを行うということに価値を見いだすタイプであるからかもしれない。

 

それで仕事の暇をみつけては自分の好きな英語の小説をコツコツと翻訳したり、知り合いにフランス語をならったり、という生活を送るようになった。それだけではなく、仕事場でも意識的に人々の行動を観察したり、いろんな人の話すことを注意深く聞くように努力した。

 

人の話を聞くというのはなかなか面白いものである。世の中にはいろんな人がるし、いろんな人がいるし、いろんな考え方がある。なかには「なるほど」と感心させられる意見もあるし、まったく無意味で馬鹿気た考え方もある。しかし、無意味で馬鹿気た考え方というのもよく聞いていると、それはそれなりの価値基準の上にきちんと成立していることがわかる。

 

ちょっと悪口みたい話になるのですが、以前アメリカにちょっといたとき、その職場にいた中国人が ろくでもない自分の考えを とうとうと披露するのを見て卒倒しそうになった。 

「黙って何かを考えているより、何かを口から発せよ!」てか?

これは、自分(日本人)にはちょっと無理と思い知らされた。ただ以来、時事に関する自分の考えを多少は心の中でまとめてみるようになった。

 

 

 

いずれにせよ、こちらが一歩下がって話を聞こうという態度を見せると、大抵の人はわりに正直に心の内を話してくれるものである。

 

その当時は小説を書くなんて思いもよらなかったのだけれど、こういう学習体験は後日小説を書く上で大変役に立った。こういうのは大学では教えてもらえないことのひとつである。

 

僕は思うのだけれど、あまり若いうちに勉強しすぎると、大人になって「勉強減り」とか「勉強ずれ」といったような現象が生ずる場合があるのではないだろうか?

 

「勉強減り」というのは学生時代にやたら勉強してけれど社会に出てからは寝ころんでTVばかり見ているというタイプであり、「勉強ずれ」というのはとにかく何かを勉強していないと落ち着かないというタイプである。

 

まあそういうのは所詮他人の生き方だから、どうでもいいようなものだけれど、僕は個人的には子供の頃しっかり遊んだ人のほうがわりに好きである。

 

 

安西水丸氏などは画風からすると少年時代かなりのんびりとした生活を送った人のように推察するのだけれど、いかがなものでしょう?

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象工場のハッピーエンド」の中の『鏡の中の夕焼け』:これは超長―い「詩」、それとも「掌小説」

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使用書籍

村上朝日堂の逆襲 (新潮文庫) 文庫 – 1989/10/25

村上 春樹 (著), 安西 水丸 (著)