物語りの終りは いつも哀しい。『国境の南、太陽の西』終訪。

 The end of stories is not hopeful, ― but rather losing. 

     Final visit to the Murakami’s  world.

 

『国境の南、太陽の西』の最後、僕と妻の有紀子との関係は、・・・そして「島本さん」は あの別荘での消失? のあと どうなったのか?

 

 

『国境の南、太陽の西』での最終場面で主人公は―――少なくとも半分は―――有紀子を離れ、島本さんのいる 黴色の月が仄かに照らす世界に行ってしまった? 

 

 

     やっと ここに辿りついた? 

 

 

 

 

『国境の南、太陽の西』の最後のシーンを抜粋してみます。

   How do you think?  What is your idea?

 

本文:

・・・・僕は彼女の体を抱いて、その髪を撫でた。

 

「ねえ有紀子」と僕は言った。「明日から始めよう。僕らはもう一度初めからやり直すことができると思う。でも今日はもう遅すぎる。僕は手つかずの一日の始めから、きちんと始めたいんだ」

有紀子はしばらく僕の顔をじっと見ていた。「私は思うんだけれど」と彼女は言った、「あなたは私に向かってまだ何も尋ねてない」

 

「明日から もう一度新しい生活を始めたいと僕は思うんだけれど、君はそれについてどう思う?」と僕は尋ねた。

 

「それがいいと思う」有紀子はそっと微笑んで言った。

 

 

 

 

有紀子が寝室に戻ったあと、僕は仰向けになって、長いあいだ天井を眺めていた。それは何の特徴もない普通のマンションの天井だった。そこには面白いものは何もなかった。でも僕はそれをずっと見つめていた。ときどき角度の関係でそこに車のライトが映ることがあった。幻影はもう浮かんではこなかった。島本さんの乳首の感触や、声の響きや、その肌の匂いを、もうそれほどはっきりと思い出すことはできなかった。 

 

ときどきあのイズミのあの表情のない顔を思い出した。僕と彼女の顔を隔てていた、タクシーの窓ガラスの感触を思い出した。そんなとき、じっと目を閉じて有紀子のことを思った。僕はさっき有紀子が口にしたことを何度も頭の中で繰り返した。目を閉じて、自分の体の中で動いているものに対して耳を澄ませた。

 

おそらく僕は変化しようとしているのだろう。そしてまた変化しなくてはならないのだ。

 

自分の中にこれから先ずっと有紀子や子供たちを守っていくだけの力があるかどうか、僕にはまだよくわからなかった。 

 

幻想はもう僕を助けてはくれなかった。それはもう僕のために夢を紡ぎだしてはくれなかった。

 

空白はどこまでいっても空白のままだった。

 

僕はその空白の中に長いあいだ身を浸していた。その空白に自分の体を馴染ませようとした。これが結局、僕の辿りついた場所なのだ、と思った。僕はそれに慣れなくてはならないのだ。

 

そしておそらく今度は、

 

僕が誰かのために幻想を紡ぎだしていかなければならないのだろう。

 

それが僕に求められていることなのだ。

 

そんな幻想がいったいどれはどの力を持つことになるのか、わからなかった。でも今の僕という存在に何らかの意味を見いだそうとするなら、僕は力の及ぶかぎり、その作業を続けていかなくてはならないだろう―――たぶん。

 

 

夜明けが近くなると、僕は眠るのをあきらめた。パジャマの上にカーディガンを羽織り、台所に行ってコーヒーを沸かして飲んだ。

 

僕は台所のテーブルに座って、少しずつ空が白んでいくのを眺めていた。夜明けを見たのはほんとうに久しぶりのことだった。空の端の方に 一筋青い輪郭があらわれ、それが紙に滲む青いインクのようにゆっくりとまわりに広がっていった。それは世界中の青という青を集めてその中から誰が見ても青だというものだけを抜き出してひとつにしたような青だった。

僕はテーブルに肘をついて、そんな光景を何を思うともなくじっと見ていた。しかし、太陽が地表に姿を見せると、その青は日常的な昼の光の中に飲み込まれていった。

 

墓地の上にひとつだけ雲が浮かんでいるのが見えた。

 

輪郭のはっきりした、真っ白な雲だった。その上に字の書けそうなくらいくっきりとした雲だった。

 

別の新しい一日が始まったのだ。でもその新しい一日が何を僕にもたらそうとしているのか、僕には見当もつかなかった。

 

 

僕はこれから娘たちを幼稚園に送り届け、そのあとでプールに行くことだろう。いつもと同じように。僕は中学生の頃に通っていたプールのことを思い出した。僕はそのプールの匂いや、天井に反響する声のことを思い出した。

 

その頃、僕は新しい何かになろうとしていたのだ。鏡の前に立つと、自分の体が変化していく様を目にすることができた。静かな夜には、その肉体が成長していく音を聴くことさえできた。僕は新しい自己という衣をまとって、新しい場所に足を踏み入れようとしていた。

 

台所のテーブルに座ったまま、僕は墓地の上に浮かんだ雲をまだじっと眺めていた。雲はぴくりとも動かなかった。まるで空に釘で打ちつけられたみたいに、そこにぴたりと静止していた。

 

娘たちをそろそろ起こしにいかなくては、と僕は思った。もうとっくに夜はあけたのだし、娘たちは起きなくてはならない。彼女たちは僕よりはずっと強く、ずっと切実にこの新しい一日を必要としているのだ。僕は彼女たちのベッドに行って、布団をはがし、その柔らかくて温かい身体の上に手を載せて、新しい一日がやってきたことを告げなくてはならないのだ。それが今、僕がやらなくてはならないことなのだ。

 

でも僕は台所のテーブルの前から、どうしても立ち上がることができなかった。

 

体からあらゆる力が失われてしまっているようだった。まるで誰かが僕の背後にそっとまわって、音もなく体の栓を抜いてしまったみたいに。僕はテーブルに両肘をつき、手のひらで顔を覆った。

 

僕はその暗闇の中で、海に降る雨 のことを思った。雨は音もなく海面を叩き、それは 魚たちにさえ知られることはなかった

 

誰かがやってきて、背中にそっと手を置くまで、僕はずっと海のことを考えていた。

 

 

 

 

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「村上ラヂオ2」の中から、『男性作家と女性作家』で話題の「シシャモ」について。

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トロッコ問題( trolley problem)について。 これはトロリー問題とも言います。

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[使用小説]

国境の南、太陽の西 (講談社文庫 む 6-14) 文庫 – 1995/10/4

村上 春樹 (著)