村上のエッセイ、『毛虫の話』『新聞を読まないことについて』の二題。

 

 

 

『毛虫の話』

 

蟻の話をして、トカゲの話をして、今回は毛虫の話です。 気持ちの悪くなりそうな方は読まないでください。

 

うちの近くには桜並木が多くて、春はとても綺麗なのだが、そのかわり五月六月になると驚異的に毛虫が多くなる。

 

 

 

 

そうなる前にこまめに殺虫剤をまいておけばいいのに、僕の住んでいる船橋市というところは自慢じゃないけれど行政がものすごくヤクザなところで、初夏になって毛虫が出揃ったかなという頃になって一斉に殺虫をやる。だから当然町じゅうが毛虫の死体だらけになる。これは見たことのない人には想像もつかないと思うけれど、実におぞましい光景である。

 

 

僕は昨年の夏、朝の6時ころに散歩していて、その殺虫剤散布車に出くわした。引っ越ししてきてはじめてのことだったので、何をやっているのかよくわからず、桜並木の下をぶらぶら歩いていたら、頭の上から 桜吹雪 みたいに白いものがバラバラと落ちてきた。いったい何だろうと思ってよく見ると、これが毛虫なのである。何万という数の毛虫が、ジュウタンがよじれるみたいな感じで道の上でのたうちまわり、その上に後からあとから毛虫が舞い降りているのである。

 

僕は声を大にして言いたいのだけれど、こういう無茶苦茶な作業を何の予告もなしに突然やられてはとても困るのだ。朝起きて外に出てみたら道が毛虫でいっぱいになっているなんて、これではまるでパニック映画ではないか。どうして前日に広報車か何かで「明日殺虫剤散布しますので毛虫に気をつけて下さい」と言うくらいのことができないのか?

 

それから、それとは別に、うちの向かいの草むらを市が殺虫をした時は、大小何百匹という毛虫が道を越えてうちの庭めがけて突進してきて、この時も本当に気味が悪かった。

 

毛虫が嫌いな人は、くれぐれも船橋市には住まない方がいいと思う。

 

ピーナッツ・バターだけは、とてもおいしいけどね。

 

 

 

『新聞を読まないことについて』

 

外国に行っていちばんほっとするのは新聞を読まなくても済むことである。 

僕は日本にいてもだいたいがあまり新聞を読まない方なのでどっちだって同じといえば同じようなものなのでかれど、それでも日本にいると大きな事件はいやおうなしに耳に入ってくるし、たとえば大韓航空機がミグに撃墜されたなんて話1983年大韓航空ボーイング747が、ソビエト連邦領空侵犯したためにソ連防空軍の戦闘機により撃墜された事件)になると、それはどうしたっていちおう新聞のページをくってみることになる。

 

その点ヨーロッパなんかにいると現地の新聞は読めないし、かといってわざわざ高い金を払って英字紙「トリビューン」を買うのもあほらしいわで、まるっきり情報とは無縁の生活を送ることになる。これは本当に楽である。

 

 

正直な話、新聞なんてなくったってちっとも困りはしないのだ。特にギリシャにいる時がそうで、朝起きる⇒飯食う⇒泳ぐ⇒飯食う⇒昼寝する⇒散歩する⇒酒飲む⇒飯食う⇒眠るというパターンをエンエンと繰り返すわけで、とても新聞の入り込んでくる余地なんかない。 

 

ギリシャというのは本当にすごい国だと思う。

 

このあいだドイツに一ヵ月滞在していて、このときもまるまる新聞というものを読まなかった。一回だけベルリン行きのパンナムでサービスのトリビューンを読んだけれど、べつになんということもなくて「そうか、アメリカがグレナダに侵攻したか」とか「ロンとヤスが握手した」とかフンフンといった感じで、それっきりである。

 

それよりはドイツの若い連中がみんな反核バッジを胸につけていたり、パーシングⅡ(アメリカが構築しようとしたミサイル・システム)反対キャンペーン・シールを車にベタベタ貼っているのを見ている方が、世界の空気の流れみたいなものを肌で感じることができる。

 

本当の情報とはそういうものだと僕は思う。

 

決して新聞が役に立たないというわけではなく、世の中には右から左に抜けていくだけの身に付かない情報が余りにも溢れすぎているんじゃないかとの思いだけである。

 

 

 

 

使用書籍

村上朝日堂 (新潮文庫) 文庫 – 1987/2/27

村上 春樹 (著), 安西 水丸 (著)