サリンジャーの小説「フラニーとズーイ」の『ズーイー』における村上と野崎の翻訳比較。

    

  〈前説部:いわゆる物語の「前口上」に焦点をあてて〉

 

緒言

ズーイ』(野崎は「ゾーイー」としているが、ここでは言及なしの場合村上の「ズーイ」という名称を採用します)は中編小説とよぶのが適当で、グラス兄弟の次男であり、小説家になって田舎に閉じこもっている兄バディーがこの物語を語っている、という体裁を採っている。 『ズーイ』の最初の部分、約2万字(野崎版:約7ページ;村上版:約10ページ)はがこの小説を書き始めるにあたっての周辺の状況(家庭内景色)を独特の口調で述べている。たとえて言うなら、芝居を演ずるに際しての前口上、あるいは、複雑な本の前説明の様式で、ここでこの本を読むことを断念する方もおられるかも? ただ、少し哲学的(心理学的、宗教的)なこの部分を乗り切れれば、楽しい物語が待っている、と100%保障します。 ここに登場するのは(語り手を除いて)、たった三人、末娘フラニー(17-19歳くらい?)俳優で5歳年上の兄ズーイ、そして彼らの、心配性なのか、それとも楽天家なんだか、判定不可の、一家の妙薬になっているお母さん、ミセス・グラース(ベッシー)だけです。

 

わたしは、ここで「村上訳」を基本にして、彼の翻訳文の意味がうまくつかめなかったセンテンス、パラグラフに焦点をしぼり、古典とも言える「野沢訳」ではどのように訳されているのか、という視点で、かなり微視的に両者の文章を比較してみました。先に記したように『ズーイ』は長編とよんでも差し支えない長さの小説ですので、最前部数十ページ、芝居の「前口上」とも呼べる部分に限定して村上 VS. 野崎でその優劣を判定した。

 

言うまでもないことですが、このやりかたでは村上が一見不利です。 ただ、野崎はもうこの世界におりませんし、(見かけ上は)村上は後出しジャンケン(ほぼ38年?)でもあるのですから、実は双方にアドヴァンテージ・ディス アドヴァンテージがあり・・・・結局イーヴンではないのかと判断しました。

 

 

方法

ここで対象とするのは『ズーイ』という小説のみです。先に述べたように、この小説はほとんど長編(中編?)であり、村上VS.野崎についての比較を小説全体でするのは、すでにいろいろな場所での優れた比較があり(?たぶん)、屋上屋を架す(‘1丁目1番地’や‘ウイン・ウイン’と同程度の陳腐表現かな?)のは必ずしも得策・有益ではないと考えました。したがって、ここでは『ズーイ』の前半部、物語の背景となるグラス一家の状況、特に歳下の二人(フラニーとズーイ)、とりわけフラニーの精神的状況を考える際に助けとなる状況を兄のバディー(この小説の語り手)が説明している部分―――芝居で例えると舞台上で役者たちが演技を始める直前の「前口上」―――に焦点を当てた。

 

 「前口上」に相当する部分の語数は約2万1千語であり、野崎では25ページ(物語全体174ページ)、村上本では32ページ(物語全体220ページ)です。

 

緒言でも少しふれましたが、私がおこなった手順は、村上版で翻訳の意味が理解し難い文章、語句(フレーズ)があったセンテンス・パラグラフを抜き出しておき、その後、野崎版での記述と比較してみるという―――ある意味―――圧倒的に村上が不利な手法です(以下 1~12太字に変換している部分に注目してください)。

 

 

結果

先に記したように小説の背景を記したバディーの語りに限定して村上訳で意味の取り難い語句(センテンスは稀)があれば、野崎訳を調べ、ふたりの翻訳を並列して記載した。

 

1.物語の、はじまりの部分、まさに1行目からです。

 

【村上訳】

これから示されるいくつかの事実が、おそらく自らを語ってくれるはずだ。しかしその語り口は、通常事実が語る語り口より、更にいくらか荒っぽいものになるかもしれない。

 

【野崎訳】

いま私の手もとにあるこれらの事実は、これだけをそのままご披露申し上げても、おそらく話は通じるであろうと考えるのであるけれども、それではしかし、一般に事実をして語らしめるという場合にくらべてもなお、いささか無愛想すぎる感じを与えはしまいかという心配があるのである。

 

判定:村上<野崎

 

2.

【村上訳】

それは我々は全員―――つまりこの四人はということだが―――血縁関係にあり、それぞれが家族内だけで通じる一種の秘儀的言語を用いて、言うなれば意味不明な幾何学(そこでは任意の二つの点を結ぶ最短の距離は完全に近い円を描く)を用いて会話しているということだ。

 

【野崎訳】

私たち四人が四人とも血縁者ばかりで、お互い同士が語り合うときには、秘教にも似た一種の血族語を使うのだけれど、これを幾何学にたとえて申すならば、ここでは二点間の最短距離は直線に非ずして、その二点を通る円の弧であるといった言語なのである。

 

判定:村上<野崎

 

3.

【村上訳】

一般的に言って、リスナーは奇妙に頑迷な二つの陣営に分かれた。一方はグラス家の子供たちは耐えがたいほど「鼻高々の」連中であり、産まれたときに水に沈めるか、ガスをかがせるかして始末するべきだったと考える人々でありもう一方は、彼らは本物の神童にして賢者であり、うらやましいとは思わないまでも、間違いなく傑出したものを持っていると主張した。

 

【野崎訳】

概して、聴取者は二手に分かれ、どちらもが、妙に過激であった。一方がグラース家の子供なんぞ鼻もちならぬ高慢ちきなガキどもだ、生まれたとたんに水に漬けるかガスを嗅がすかして殺してしまえばよかったんだと言うかとおもうと、一方は、あれこそまさに正真正銘の年少学者賢人の集まり、羨むにはあたらぬにせよ、ざらにある類いではないといったあんばい。

 

判定:村上>野崎

 

 

4.

【村上訳】

彼が検査を受けた場所は一様に、高い伝染性を持つトラウマだか、あるいは昔ながらのお馴染みの細菌だかに汚染されていたみたいだ。

 

【野崎訳】

その検査を受ける場所にはきまって、伝染力の強い外傷細菌か平凡なありきたりのバイ菌がうじゃうじゃいたみたいな感じで、彼としては非常に高くついた経験だったことがきわめて歴然としているのである。

 

判定:村上<野崎?

 

 

5.

【村上訳】

どこかの公衆電話からかけているらしく、硬貨がぱたぱたと落ちる音が聞こえた。そして素性不明のその誰かの声は―――意図的なものではあるまいが、衒学的道化のような響きがそこには聞きとれた―――グラース夫妻に向かって、息子さんのズーイは十二歳にして、必要とあらば、メアリ・ベーカー・エディーとまったく同じだけの英語の語彙を用いることができますと報告した。

 

【野崎訳】

普通の公衆電話で何度も小銭を追加しながら、どこの誰ともわからぬ声が―――学者口調までまねるつもりはなかったらしいけれど―――グラース家の両親に向かって、御年十二歳になる彼らの息子ゾーイーは、使わせれば、メアリ・ベーカー・エディに少しも劣らぬ英語の単語を駆使する能力を持っている旨を知らせてよこしたのであった。

 

判定:村上<野崎

 

 

6.

【村上訳】

アバッシュ・ダンスの踊り手が相方に対して示すみたいに、残忍さの中に愛を忍ばせて接するだけでは―――ちなみに彼女は、(おまえがどう思うにせよ)そのへんのことをわかってはいるけれど―――十分とはいえない。彼女はレス(グラース家の父)に負けず劣らず、感傷性を糧として生きているのだし、そのことを忘れちゃいけない。

 

【野崎訳】

アバッシュ・ダンスのダンサーがパートナーを扱うみたいに、乱暴な態度で甘えた愛情を示すやりかたではだめなんだ―――もっとも、彼女はそれも理解しているんだけどさ、君はどう思ってるか知れないけど。君は忘れているが、彼女はレス(グラース家の父)とほとんど同じくらい感傷に生きている人間なんだぜ。

 

判定:村上<<野崎

 

 

7.

【村上訳】

でもそんなのはたぶん世迷言だ。職業的耽美主義者に対して、カードはあらかじめ不利に仕組まれているのだ(感心するぐらい実にぴったりと)。そして僕らは遅かれ早かれみんな、暗く饒舌なる学究的な死を迎えることになるし、そのへんがまさにお似合いだろう。

 

【野崎訳】

しかし、そんなことはおそらくオチャラカシだよな。およそ芸術で飯を食おうという者にとって、サイの目は(おそらくイカサマはないはずだが)常に凶と出ているんだ。僕たちはみんな、おそかれ早かれ、喋って喋って死んでゆく暗澹とした教師の死という奴を迎えるわけだが、それも当然と僕は思うよ。

 

判定:村上<<野崎

 

 

8.

【村上訳】

馬鹿な話だが、僕は確かにこう感じるんだ。どこかこのとても近くで―――おそらくひとつ先の家で―――優秀な詩人が死を迎えている。しかし同時にやはりこのすぐ近辺で、若い女性がその美しい身体から膿汁をたっぷり一パイント抜かれているんだって。そして僕としても、悲しみと大歓びとの間を永遠に忙しく行ったり来たりしているわけにはいかないんだ。

 

【野崎訳】

今日の僕は、頭では否定しているくせに、感覚として、どこかここのすぐ近くで―――この道の先のとっつきの家あたりかな――― 一人の優秀な詩人が死にかかっているという感じがはっきりとくるんだな。がまた同時にこのすぐ近くのどこかで、誰か若い女の人がその愛らしい肉体から一パイントの膿汁を取ってもらう華やかな光景も展開しているような気がしてしかたがないんだよ。僕だって、悲嘆と歓喜の間を、永久に往復しているわけにはいかんじゃないか。

 

判定:村上<<野崎

 

 

9.

【村上訳】

そして職業的作家であることのお馴染の恐怖が、それにつきものの言葉の悪臭とともに、僕を落ち着かなくさせる。でもここはひとつがんばってやってみよう。それはきわめて大事なことに思えるから。

 

【野崎訳】

それに、職業作家だという昔ながらの恐怖感と、それからそれに付随していつも感じる言葉の臭気、そいつに刺激されてそろそろ席を立ちたくなってきた。だが、これはぜひともやらねばならない大事な事のような気がするんだ。

 

判定:村上<野崎

 

 

10.

【村上訳】

少なくとも精神がすべての光の源泉を知るというのがどのような境地であるかを、おまえたち二人が理解できるようになるまではということだが。

 

【野崎訳】

君たち二人が、すべての光の根源を会得した境地というものを、少なくとも想定できるようになるまではさ。

 

判定:村上<野崎

 

 

11.

【村上訳】

シーモアがかって僕に―――よりもよってマンハッタンを横断するバスの中でだぜ―――こう言ったことがある。すべてのまっとうな宗教的探求は差異を、目くらましのもたらす差異を忘却することへと通じていなくてはならないんだと。それはたとえば少年と少女の差異であり、動物と石との差異であり、昼と夜との差異であり、熱さと寒さの差異だ。そのことが唐突に、肉売り場のカウンターで僕の心をはしっと打ったんだ。

 

【野崎訳】

シーモアがいつか言ったことがある―――事もあろうに、市内のバスの中でだ―――宗教をまともに勉強すれば、男と女、動物と石、昼と夜、暑さと寒さといったものの違い、この見かけだけの相違にとらわれないようになるはずだってさ。こいつが肉の売り場でいきなりパッと閃いたんだ。

 

判定:村上<<野崎

 

 

12.舞台開幕のための【前口上】の最終部分・・・。

 

【村上訳】

四年前に書かれたその手紙の最終ページの裏側には、コードバン革が褪せたような色合いの染みが付いている。そして、折り目に沿って、二ヶ所で紙が裂けている。ズーイは読み終えると、それなりに注意を払ってページを番号の順に並び変えた。

 

【野崎訳】

この四年ごしの手紙の最終の一枚、いちばん下の一枚には、コードバンの革の色気がさめたみたいなしみがついていて、折り目のところが二ヵ所ほどやぶれていた。読み終わったゾーイーは、その一枚をいささか慎重に扱いながら、またもと通り一枚目が上になるようにかさね直した。

 

判定:村上<野崎?

 

総合判定:野崎11勝(うち大勝4、誤解かな? 2)、村上1勝。

 

 

なお(ほ?)、この後 時系列的に、精神的衰弱のフラニー、それを何とか治癒しようとしての兄のズーイ、そして お母さんの奮闘 が展開される。

 

 

考察

ズーイ』という小説全体を一まとめとして、両者 野崎と村上訳を比較するのが真っ当であり、公正な比較であることは十分理解している。ただ、漠然とした大まかな比較になるのは避けられない。そこで「物語は細部にこそ宿る」という 誰かの格言のような言葉を頼りに、ここでは前半部、中でも「前口上」でのセンテンス毎の比較で翻訳全体の空気感の違いみたいなものを提示してみた。

 

すでに述べたように、時間の経過以外、村上版が圧倒的に不利な手法なので、この結果をもって野崎訳が村上訳より優れていると単純に判定するわけにはいかない。ただ、抜粋した文言を読んでいただければ、ある程度、納得していただけると思うし、この小説全体を何度も読んでいるコアな読者なら尚更ですが、この小説に関しては明らかに野崎版が優れているように私は思います。

 

 野崎版も村上版も真摯に翻訳しており、原作の過激な意訳を(個人的判定ではあるのですが)していると指摘できる部分はほぼ皆無だと思います。

 

最後にどちらの翻訳が、三人の登場人物それぞれの性格をうまく表現できているかという問題では、野崎訳でも村上訳でもほとんど大差がないように感じました。ただ、あえて登場人物の性格・感情表現の理解し易さのみに良点をつけるとすれば、野崎版の方が村上版より優れているという印象を受けました。これは、村上版に比べて、野崎版のほうが一人称を臨機応変に変化させて使用していることに起因するのかもしれません。

 

 

仮に、日本語の解るサリンジャーが存在したと仮定すると:

 

「そうそう、この翻訳の雰囲気、いいんじゃない!!」

 

と言いそうなのが「野崎訳」という判定になりました。


 

使用小説

1.フラニーとゾーイー (新潮文庫) 文庫 – 1976/5/4

サリンジャー (著), 野崎 孝 (翻訳)

 

2.フラニーとズーイ (新潮文庫) 文庫 – 2014/2/28

サリンジャー (著), 村上 春樹 (翻訳)

 

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1年前の今日あなたが書いた記事があります

チャンドラーの作品:清水版「さらば愛しき人よ」、村上版「さよなら、愛しい人」での翻訳姿勢の比較。

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1年前の今日、わたしが upload したブログがあります。悪くないです。

 

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村上春樹「雑文集」: 村上が、人生の折々に書いた、分厚く意味深い「エッセイ?集」のようなもの。

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