村上春樹 若かりし日の『引越し』グラフィティー

 

 

村上は引っ越しが好きでいろんな理由で、いろんな場所に引っ越しをしております。

ここでは、3編紹介します。

 

 

 

「『引越し』グラフィティー(1)」

 

人間というのは大別するとだいたい二つのタイプに分かれる。つまり、引越しの好きな人間と嫌いな人間である。

 

べつに前者が行動的で進取の気性に富んでいて、ちょっとおっちょこちょいで後者がその逆で、というわけではなく、ただ引越しが好きか嫌いかという極めて単純な次元での話である。

 

話はちょっとずれるけど、単純な次元の話をさらに深く考えるのは良くないと思う。 たとえば、バラの花が好きな人は直情的だとか、犬を好きな人は性格が明るいとか、そういう考え方をしてはいけない。 ただバラが好き、犬が好きというだけの話なのだ。 

 

 

 

だってそうでしょ、ヒットラーは犬が好きだったけど、犬好きな人がみんなヒットラー的な要素を持っているとは言えないじゃない。

 

 

僕はすごく引越しが好きである。 荷物をまとめて街から街へと家から家へと移り歩いていると、本当に幸せな気持ちになってくる。 しかし、だからといって僕がアクティブな人間であるとは言えない。 

 

むしろその逆で、生活習慣を変えたり物事に対する評価を変えたりするのは極端に嫌いなほうである。 

 

麻雀の場所を変え、酒場の梯子(はしご)、みんな嫌いだ。 洋服なんか15年前と殆ど同じものを着ている。 でも引越しだけは好きだ。

 

引越しの良いところは、何もかもを「ちゃら」にできることである。 

 

近所づきあい、人間関係、その他もろもろの日常生活の雑事、そういうものが全部一瞬にしてパッと消滅してしまうのである。この快感はもう一度覚えると忘れることができない。僕の友だちに麻雀で役満を振り込むたびに「ええい、打ちこわしじゃ!」と言って卓を蹴倒す人がいるけど、まあ気持ちとしてはそれに似ている。 夜逃げこそ引越しの基本的原型である。

 

僕はこれまでずいぶんたくさん引越しをして、いろんな街に住んで、いろんな人とつきあってきた。 そしてそのたびに何もかも「ちゃら」にして今に至ったのである。

 

 

 

 

 

「『引越し』グラフィティー(2)」

 

この雑誌は関東でしか売ってないから(売ってないだろうな、よくわからない)、関西の地理的な説明をするのはかなりしんどい。暇な人は地図を見て下さい。

 

僕は物心ついてから高校を出るまでに二回しか引越しをしなかった。 不満である。もっとたくさん引越しをしたかった。

 

それに二回引越しをしたといっても、直線距離にして一キロほどの地域を行ったり来たりしていただけである。 こんなのって引越しとも言えない。 兵庫県西宮市の夙川の西側から東側へ、そして次に芦屋市芦屋川の東側へと移っただけのことである。 東京でいえば、新宿の三越からマイ・シティに移ったと、それから新宿御苑に移ったというくらいの距離である。 だから、転々といのをやったことがない。

 

 

転校生というのに僕は昔から憧れていた。 小学校と時なんか転校する人がいるとよく「さよなら文集」なんて言うのを作ったりしてね、「エミコちゃん、遠くに行ってもお手紙下さい」とか「砂場でよくつっころばしてごめんね」とかいった作文をまとめて渡したりしていた。 その子がいなくなっちゃうと、その席だけがしばらくぽつんと空いていたりしてね。 そういうのがもう病気になっちゃうくらい変質的に好きだった。

 

 

新しく入ってくる転校生もなかなか良かった。 かわいい女の子がちょっとナーヴァスになっていたり、新しい教科書がまだなくて隣の人と一緒に見てたりするところなんか、もう「これだ。これしかない」という感じで興奮したものだった。

 

しかし、そのような強い希望にもかかわらず、僕はついに一度も転校することはできなかった。 そしてその充たされなかった少年時代のフラストレーションが18歳を過ぎてから「引越し病」という宿命的な形をとって僕の上に襲いかかってくるのである。

 

 

 

 

 

「『引越し』グラフィティー(3)」

 

僕が大学に入ったのは一九六八年でとりあえず 目白にある学生寮 に入った。この寮は椿山荘の隣りに今でもあるから、目白通りを通った時はちらっと見ておいてください。

 

※:有名な話ですが、『ノルウェイの森』に出てくる主人公が入っている右翼的組織の運営している学生寮のモデルとなった。

 

僕はここに半年住んでいたが、その年の秋に素行不良で放り出された。経営者は札付きの右翼で、寮長は陸軍中野学校出身の気味の悪いおっさんとくれば、僕みたいなのは放り出されないほうがどうかしている。 

 

時は一九六八年、まさにドンパチの時代だし、こっちだって血の気の多い年代だから、頭にくることはいっぱいあった。 

 

右翼学生が ソーカツ しにくるっていうので、枕の下に包丁置いて寝たこともある。

 

でも生まれてこの方、一人で暮らしたのは初めてだったから、毎日の生活はとても楽しかった。だいたい夜になると目白の坂を下って早稲田の界隈を飲んだくれる。 で、飲むと必ず酔いつぶれる。 その頃は酔いつぶれずに飲むなんていう器用なことはできなかった。

 

酔っ払うと誰かがタンカを作って寮まではこんでくれた。タンカを作るには実に便利な時代だった。というのはそこらじゅうにタテカンがあふれていたからである。『日帝粉砕』とか『原潜寄港絶対反対』なんていう看板を適当に選んでむしり取ってみて、そこの酔っ払いを載せて運ぶのである。これはなかなか楽しかった。

 

でも一度だけ目白の坂でタテカンが割れて、石段でいやというほど頭を打ったことがある。おかげで二、三日頭が痛んだ。

 

それから夜中に日本女子大(目白キャンパス)(参考:読売ランド前、西生田キャンパスは 2021年にクローズ?)の看板を盗みに行ったこともある。

 

そんなもの盗んだって仕方ないんだけど、なんとなく欲しくなって外しに行ったら、警官に見つかって追いかけられた。

考えてみたらあのころは 週に一回は警官に職務質問された。 

 

 

時代も荒れていたし、こっちの人相も悪かったのだろう。最近は一度も職務質問されない。

 

警官に職務質問されなくなったら人生はもうお終いなんじゃないかと、ふと思ったりする。

 

 

 

 

使用書籍

村上朝日堂 (新潮文庫) 文庫 – 1987/2/27

村上 春樹 (著), 安西 水丸 (著)