読者の質問に答えてくれる「村上さんのところ」から、 選りすぐりの質問 回答 を紹介します。

 

「健さんが好きでした」「英語なんて必要ないじゃん」そして「『フラニーとズーイ』は面白い」など。

 

 

 

 

「英語なんて必要ないじゃん」

 

質問:

悩める高校教師より質問があります。

巷ではグローバル社会が叫ばれておりますが、日々生徒の英語嫌いに手を焼いております

英語が堪能な村上さんなら、こういう生徒にどういうアドバイスをしてあげますか? 

 

 

回答:

僕は基本的に、語学というのは興味がある人がどんどん自分で深めていくものだと思っています。やりたくない人にいくら無理にやらせても、単なるエネルギーの消費じゃないかと、僕は高校時代、物理とか化学とか、すごく苦手でした。 勉強もしなかった。でもそれで今苦労しているかっていうと、してないです。 日常生活ではそういう知識はほぼ使わないから。 語学も使わない人はきっと使わないでしょうね。

 

でもコンピューターの世界ではすでに英語が共通語になっていますし、仕事でいざ必要になったときに「英語できません」だと、ちょっと困ることになるかもしれません。 

 

僕は日本の作家ですが、今は英語ができないと とてもとても不便なことになっています。

国際的な交流みたいなことがすごく多いからです。 

 

だから「今の世の中、英語力がいつ必要になるか、わからないよ。そのときに話せないとすごく困るよ」と言って脅すくらいしかないんじゃないですかね。

 

 

イタリアとかフランスとか、昔は英語がほとんど通じなかったんだけど、今はずいぶん通じるようになりました。世界がどんどん変わっています。 

 

日本だけが取り残されていくみたいな印象があります。

 

もちろん、英語ができりゃ えらいってわけじゃないんですが、

 

文化的に内向きになってしまうってのはまずいですよね。

 

 

 

 

「せめて『セクシュアルな』にして・・・」

 

質問:

最近年齢を重ねるにつけ「エロい」気持ちがどんどん萎んでいくのを感じます。村上さんの小説には、はっとするような新鮮で「エロい」描写がよく出てきますが、このような新鮮で「エロい」気持ちをいつまでも持ち続ける秘訣はなんでしょうか?

 

 

回答:

勝手なお願いかもしれませんが、できれば「エロい」というのはやめてくれませんか。 せめて「セクシャルな」と言ってください。そこにはわりに大きな違いがあります。 

 

僕がセクシャルなシーンを書くのは、それが人間の心のある種の領域を立ち上げていくからです。 

 

そういうことがときとして物語にとって必要になります。 

 

暴力や血なまぐささもそれと同じです。 非現実的なできごともそうです

 

それが物語を有効に起動させていきます。

 

僕は今でもセクシャルな気持ちを持ちつづけているか? 

 

そういうのが無ければ、小説なんて書けません。 縁側で盆栽でもいじってます。 でも盆栽にセクシャルな気持ちとか持っちゃうと、ちょっと困りますよね。どうしたらいいんだろう?

 

 

 

 

「人文系学部の危機」

 

質問:

私は大学院で哲学を専攻しております。

近年、文科省は人文系の学部を廃止する方向に動いており、このままでは大学は就職の役に立つことだけを教える専門学校のようになってしまいます。人文系の学部が危機に瀕しているこの状況に対して、小説家でありながら大学で教えた経験をもつ村上さんはどのような考えをお持ちでしょうか? ぜひお聞かせください。

 

 

回答:

人文系ってあまり直接的な役にたたない学部だけど、直接的な役にたたない学問って、世の中にとってけっこう大事なんですよね。

 

派手な結果は出さないけど、じわじわと社会を下支えしてくれるから。 

小説も同じです。 小説がなくたって、社会は直接的には困りません。

 

でも小説というものがなくなると、社会はだんだんと潤いのない歪んだものになっていきます(いくはずです)。

 

人文系の学問に対する予算が削られていくというのは、世界中共通した現象であるようです。 日本だけではありません。結果がすぐに目で見える、即効的な学問をみんなが求めている。 だんだん世知辛い世界になっていくようです。

 

でもじっさいに大学に身を置いていると、

 

「この人、こんなことを研究していて、ほんとに何かの役に立つのかな?」

 

と首をひねらされることが、人文系・科学系のいかんを問わず、ちょくちょくありますね。 まあ学問というのは本来そういうものなのかもしれませんが。

 

※:研究って、人の役に立つとか、役に立たないとかという尺度とは離れたところに存在できうるもの。 人文系と理科系の研究を含めて、国家が持つ余裕の程度と強く関係している、あるいは相似なのではと思います。・・・・ですから日本の基礎研究、現在は・・・・・close to death? 違うのかな? How do you think?

 

 

 

 

「健さんが好きでした」

 

質問:

高倉健さんは好きですか?

私は若い頃からとても好きでした。同じ時代を生きて、新しい作品にリアルタイムで出会えたことの幸せと、もう出会うことのできない寂しさを、ひしひしと感じています・・・・。 最近この手の感慨がとても多くなりました。

 

 

回答:

僕は学生時代、新宿歌舞伎町の東映映画上映館で、ほとんど毎週のように東映映画を見ていました。 

「昭和残侠伝」のシリーズなんて、もう最高だったです。 ただ健さんが「善い人」になってからの映画はあまり見ていません。 どうしてかな?

 

あの1960年代終りの頃の歌舞伎町の雰囲気が、ちょっと特殊だったんでしょうね。

 

 

 

 

 

『フラニーとズーイ』は面白い

 

質問:

村上さんが和訳の際に大切にしている決め事のようなものがあれば、教えてください。 また、これまでに一番和訳に悩んだ英語表現についても、その表現が使われた作品名と併せて教えていただければ嬉しいです。

 

 

回答:

翻訳された海外の小説はどうしても文章が「普通の日本語の文章」とは少しずれたところに落ち着いてしまいます。 

 

※:ところで、「カズオ・イシグロ」の小説は、舞台が日本ということもあるのか、いわゆる、自然な日本語に近いです。

 

 

地の文章もそうですし、会話もそうです。できるだけ普通の日本語に近づけようとしますが、やはり越えられない一線みたいなものがあるようです。 原文に忠実にあろうとすると、どうしてもそうなってしまいます。 

 

「だから海外の小説は読まないんだ」という方も数多くおられると思います。

 

でも僕はそのような「ずれ」の中に、けっこう大きなポテンシャルが潜んでいるのではないかと思うんです。

 

そういう「ずれ」が、逆に日本語に新しい可能性のようなものを与えているのではないかと。 

 

ですから、そういう意味で、翻訳をしていくことは、僕にとってとても良い勉強になっています。

 

僕が苦労した翻訳はたくさんありますが、いちばん大変だったのは去年の三月に出したサリンジャー『フラニーとズーイ』※※(新潮文庫)です。サリンジャーの練に練られた、凝った強固な文体を日本語に置き換えていくのは、実に至難の業でした。 サリンジャーが『キャッチャー ・イン・ザ・ライ』を乗り越えるために、どれくらい念入りに自分の文体を再構築していったか、訳しているとそれがひしひしとわかります。 

 

まさに力業です。 訳すのは難しかった。 でもおもしろかったなあ。

 

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※※フラニーとズーイ』の「フラニー」については、確か以前にブログに書きましたが「ズーイ」についても、いつか英語 日本語について記述してみます。

現在、かなり真面目に取り組んでます。

 

そして、『キャッチャー ・イン・ザ・ライ』についても英語と日本語翻訳版の比較をする予定です。もっと真面目です。

 

 

 

使用書籍

村上さんのところ (新潮文庫) 文庫 – 2018/4/27

村上 春樹 (著)