『白子さんと黒子さんはどこに行ったのか?』 そこに込められている かなり深い哲学。
小学生の頃、14インチの白黒テレビ *で見ていた化粧品のコマーシャル、それが「白子さん黒子さん」でした。 「白」善、「黒」悪、というCM内容は現在なら、おそらく問題になる内容です。当時は、誰も問題にしませんでしたし、このCMの何が問題かは――指摘されても言われても―――ぴんとこなかったでしょう。
*:テレビが故障すると、近所の電気屋のおっちゃんが来て直してくれましたが、今考えると、田舎の電気屋さんが世の中に出始めの最新機器、テレビの詳細なんて知るわけもなく、中の真空管を交換していただけだったのかも?
・・・時は経過し、初めて自分のテレビを持つことができたのが、結婚してからで、白黒の14インチで1万円のテレビ、「バロン」というメーカーでした。値段の切がよかったので今でも覚えております。
[ロゼット本舗 ロゼット洗顔パスタのCM] について。
https://www.youtube.com/watch?v=KpvF2-cZFeE
ロゼット洗顔パスタ漫画広告を考え出したのは創業者の原敏三郎さん自身で、これらの広告は当時社内にいたデザイナーが描いた。
モデルとなったのは、白子さんが創業者の奥さん、黒子さんはその姪子さん。これらの広告は大ヒットとなり、昭和40年代のピーク時には年間600万個を売り上げる驚異的な人気商品となった。現在も、この化粧品は販売されている? たぶん。
本文:
このあいだ、何の脈絡もなくふと気づいたのだけれど、最近白子さんの出てくる化粧品の漫画広告をすっかり見かけなくなってしまった。三十代の若奥様風と二十代の娘の二人のキャラクターがかわりばんこに黒くなったり白くなったりして
「あらどうしたの白子さん、最近すっかり色白になっちゃって?」
「うん実はね、××を使ってるのよ」
なんてやりあうあれである。
終始同じパターンのやつ。覚えてますか? 僕はあの広告がけっこう好きだった。もしなくなったんだとしたら何となく残念である。キャラクターが順番に白くなったり黒くなったりするところが面白かった。
あんなにしょっちゅう立場を入れ換えていると、ときどき間違えて両方とも白くなったりするんじゃないかなと思ってみていたのだが、ただの一度も間違えなかった。どちらかが白いともう一方は黒い。どちらかが黒いともう一方は白い。
あの広告はいったいいつごろまで存続していたのだろう? まわりの人間に訊いても、誰も知らない。それはいつの間にか「そういえば」的になくなっていたのだ。「そうですね。そういえば最近見ないですね」という感じで。
昨今は色白美人というのはあまりもてはやされないから、きっと広告のほうもやりにくくなったんだろうと思う。
白子さんが ○ で、黒子さんが × という単純な二極構造的図式が通用しなくなってしまった のだ。
そうするとあの広告自体の基盤が消滅してしまう。黒子さんと白子さんが「これサンモリッツでスキーしたときに焼けちゃったの」「あらいいわねえ、どれくらい行ってたの?」なんて話をしだしたら、これはもう広告として収拾がつかなくなるだろう。そのうえ小麦子さんなんていうキャラクターまで出てきたりしたら、いったい何が善で何が悪なのかいよいよわけがわからなくなってしまう。
昔は単純でよかった。
それに黒子さん白子さんなんていうと、なんだか最近はストリップ小屋の看板みたいな雰囲気もある。
「白黒絶頂本番。縛りの黒子・悶えの白子」
なんてね。できることならこういうのを ダイアナ・ロス と オリビア・ハッセー の組み合わせで見てみたいけど、まあ無理だろう。
さて、広告の話を続けると、この白子さんと黒子さんシリーズも良かったけれど、一昔前の 養命酒の広告 も良かった。これはだいたい8コマぐらいの漫画で、主人公は一郎君とかいう名前の、名前からしていかにも素直そのものという小学生であった。一郎君のお母さんは体が弱くて、いつもなんのかんのと寝込んでいる。だから一郎君も学校に行ってもなんのかんのと元気がない。
ところがその話を耳にした同級生の進くんが(この人も名前からして親切そうである)
「ぼくんちのお母さんも体が弱かったけれど養命酒を飲んだら最近ではすっかり元気になったよ」
と一郎くんに教えてくれるのである。一郎くんは家に帰ってそれをお母さんに伝える。お母さんは関心を持って「じゃあ私もためしに養命酒を飲んでみようかしら」ということになる。
飲めば当然元気になる(何しろ広告だから、元気にならないわけがない)。 最後のコマは一郎くんの一家が奥多摩あたりで山登りをしている絵で、お母さんは見違えるほど元気になっている。顔も若々しくなっている。お父さんも心なしは嬉しそうである。何もかも養命酒のおかげである。よかった。
この広告文脈は「白子さん黒子さん」の場合とだいたい同じである。
つまりある特定の知識を有しているが故に救済されている人間Aが、その知識を有していないが故に苦しんでいる人間Bにその知識を分け与え、自分のいる位置までひっぱりあげてやるわけだ。
でも、そうすることでAはBに対して、決して「救ってやったんだぞ」というような恩着せがましい感想は持たない。それは無償の行為であり救済なのだ。AはあくまでBがあるべき状態を提示しただけのことなのである。そしてAはBが同じ地平に身を置けたことを素直に「良かったね」と喜べるのである。
こういうのはやはり立派なことだろうと僕は思う。
あるいは白子さんも人の子だから、実は腹の底では黒子さんのことを「ふん、何さ、何も知らないんだから」と侮っているかもしれない。
しかし、それでも白子さんは意地悪なんかしないで黒子さんにきちんと有効な情報を与えてあげるし、黒子さんはそれで救済されるし、白子さんは自分がたとえ一瞬でもいけないことを考えてしまったことを密かに恥じるのである。おそらく。
そんなのリアルじゃない、とあなたは言うかもしれない。そうですね、確かにリアルじゃないかもしれない。ひと言で言っちゃうと、これは実にありし日の戦後民主主義の理想世界である。つまりそこにはあるべき状態というものが厳然として存在し、努力さえすれば人はそこにちゃんと到達できるのである。
もちろんそういう世界にあっても人はみな平等というわけではない。
白子さんは黒子さんより、 進くんは一郎くんより、一歩先に進んでいるかもしれない。
みんなが平等な世界なんて存在しない。これは当たり前の話である。
でもそれはそれとして、白子さんにも進くんにもちょっと足を止めて後ろから来る人に手を貸してあげようという心持があるのである。
僕は昔は良くて今が良くないと言うのではない。
世界はそんなに単純ではない。
でもその時代、たしかにそういう種類の心もちというのが、あるところにはあったような気がする。もちろん、ないところにはなかった。でも、あるとこにはあったのだ。
だからこそ白子さんは黒子さんを救済しつづけ、それがずいぶん長いあいだワン・パターンのシリーズ広告として機能しえたのだ。
そこには確かに、精神的余裕のようなものがあったのでと思う。 あるいはあそびというか、精神の予備の空間のようなもの がそこにはあったのだ。
これは「ユートピア世界は存在する」―――今は存在しないにせよどこかには存在するはずだ―――という思いが共同幻想として人々の間に存在していたからだと思う。
その世界では多少の差こそあれ、人々はみな元気で、女性はみな色白で、奥多摩は良い天気である。
でももちろん、今ではそんな幻想は消えてしまった。
社会のスピードがそれをすっぽりと飲み込んでしまったのだ。そして幻想そのものが商品化されてしまったのだ。幻想はいまや資本投下の新しいフロンティアなのだ。幻想は無料でみんなに平等に配られるような単純なものではなくなってしまったのだ。それは多様化し、洗練され、新しいパッケージを与えられた商品となった。そしてそういう世界にあっては白子さんにはもう何が善なのかわからなくなってしまっているのかもしれない。進くんは「余計なことには口はだすまい」と決めているのかもしれない。
白子さんと黒子さんはどこに行ってしまったのか?
それが、この文章のテーマである。
たぶんどこにも行けなかったんだろう。
[おしまい]
ヤフーで調べてみると、「白子さんと黒子さん」はまだ お二人で顔をあわせて化粧品の感想を語り合っているらしいです。
ほんとかなぁ? 少なくとも、わたしは TVの画面では見たことがありませんが・・・・。
[使用書籍]
村上朝日堂 はいほー! (新潮文庫) 文庫 – 1992/5/29
村上 春樹 (著)