『ギリシャの島の達人カフェ』という素敵なエッセイ。
「使いみちのない風景」から。この本に掲載されている三つのエッセイのうちの、中間(真ん中)の作品。 のんびりしていて印象的なエッセイ。 妙に記憶に残ってしまいます。
「使いみちのない風景」
昔小さなギリシャの島に住んだことがある。美しいビーチがあるので、夏のあいだはけっこう賑わうのだが、十月ともなると観光客もいなくなってしまう。ついでながら、諸物価もぐっと安くなる。その静かな島で集中して仕事をしようという心づもりだった。
その島での我々の唯一の娯楽は、毎日午後になると港のカフェ にいってコーヒーを飲み、舟から下りてくる人たちを眺めることだった。
カフェ といっても洒落た店があるわけではなく、広場の片隅に日傘とテーブルと椅子がならんでいるだけだ。出てくるコーヒーはネスカフェのインスタント、紅茶は味のないティー・バッグ。
シュガー・トング
カフェ の客の半分は退職した老人たちで、あとの半分はとりあえず何もやることがない人たち―――つまり「金はないけど暇はある」というタイプである。我々もそんな人々に交じって、同じように時間をかけて新聞を隅から隅まで読んだり、頭を空っぽにしてただぼんやりと日向ぼっこをしたりした。あるいはピレエフスからの船が着いたら、下りてくる乗客を一人一人、とくに意味もなくしかし刻明に観察した。
そういうことを毎日飽きもせず延々と続けていた。そんなものを娯楽と呼べるかどうかは難しいところだけれど、我々の住んでいた小さな島では、ちょっと息抜きがしたくなったら、
〈じゃあ港のカフェでも行こうか〉
という以外に選択肢が存在しなかったのだ。
やがて僕はそんな生活に少しずつ馴染んでいった。
頭を空っぽにできるのなら、そういうことができるうちにちゃんとしっかり空っぽにしておこうじゃないか、と僕は思った。
そう開き直ると、頭を空っぽにして船から下りてくる人々の顔を眺めるのも、だんだん心愉しいものになっていった。
見方によってはスリリングでさえある。
よく見ると、世の中の人たちは一人ひとり実に違った顔をしているのだ。そしてみんなそれぞれに違う場所で違う生活をしているのだ。
そのようにして二週間ばかり経過したあとで、僕はふとこう思った。
これまで何をあくせくしていたんだろう。
東京で暮らしていたときには、なんであんなに些細なことで苛立ったり、腹を立てたりしていたんだろう。
鶏が鳴いたら起きて、晴れたら日向ぼっこをする、それがまっとうな人間の生活じゃないか。
どうしてわざわざこんなに苦労して小説なんて書かなくてはいけないのだ―――
というようなわけで、僕は小説を書くことを放棄した。
書きかけの原稿を焼き、
モンブランの万年筆を青く深いエーゲ海に投げ込んだ。
文学がなんだ、批評がなんだ、賞がなんだ。
ベストセラー・リストがなんだ。
そしてそれからは毎日港のカフェに通って、みんなと一緒に頭を空っぽにして、ぼおおっと海と空と雲を眺めながら、幸福な短い一生を終えることになりました。
めでたし、めでたし・・・・ということにはならなかった。もちろん。
我々はやがてその島を出て、もう少しだけにぎやかな別の島に移った。それからもっと にぎやかなローマに移った。そしてそのあいだ、
僕は相変わらず執拗に リアリスティクに、休むことなく小説を書き続けた。その小説はやがて完成し、結局『ノルウェイの森』というタイトルをつけられることになった。
僕はときどきその島のことを思い出す。今でも、港のカフェ には島の暇なおじいさんたちが集まって、日がな いちにち みんなでぼおおおっとしているんだろうなと想像する。
『ノルウェイの森』の表紙を見るたびに、その裏側の選択肢としてそこにあった港の『達人カフェ』のことを思うわけだ。
ピレエフスからのフェリーの汽笛が聞こえる。太陽が歩道を温め、かもめが鋭く鳴く。
おつかいの小さな女の子がムシュキロ〈ギリシャ・パン〉を抱えて家に帰っていく。
硬く白い雲が空を流れていく。
でも僕はそこにいない。
僕はここにいて、まだ小説を書いている。
1年前の今日 upload していたブログです。興味のある方はどうぞ。そうとう真面目だと思います。
1年前の今日あなたが書いた記事があります
『貧乏な叔母さんの話』を読んで、本当の面白さを感じられましたか?
使用書籍
使いみちのない風景 (中公文庫) 文庫 – 1998/8/18