カーヴァー『愛を語るときに我々が語ること』について。
この短編小説集「愛について語る時に我々の語ること」を代表する短編は間違いなく
『愛について語る時に我々の語ること』
であり、この本の表題作になっている。 英題は
『What we talk about When we talk about love』
でカーヴァーにしては珍しくウイットに富み、洒落たタイトルだと思う。
[物語概略]
二組の夫婦4人、それぞれ、メル(夫)とテリー(妻) (ともに40歳代)、そしてニックとローラ (30歳代)は、いずれも再婚同士だ。
ふた組の夫婦4人共、夫婦関係の継続に特段の疑義が無いと考えて(考えようとして)いる。
ただ、精神的な愛の絶対性を信じている、テリーの夫である外科医メルの心に湧いている微妙な違和感を別にして・・・・・・・ということだが。
この4人でジンとトニック・ウォーターを飲みながら、医師メルが病院で目にした、老夫婦のエピソードを話す。
瀕死の重傷にも関わらず、( アリクイの夫婦のように )* 永遠にしっかりと固く抱き合っていることを望む老夫婦についてである。
*:少しだけ物語を中断します。
村上春樹がアリクイの夫婦(夜行性だそうです)について描いたエッセイがありますので、以下に一部を紹介してみます。全文はいつか記述するつもりです。
(ところで、最近のZ世代の方は、この句点(。)に強迫観念を持たれているそうですね。 皆さん、いろいろ大変ですよね。 わたしなんか、確か以前にも書きましたが、句点(、)読点(。)と60年間も思っていたんですから。
“句読点が怖い”のは、こちらが先!?)
[村上エッセイ「使いみちのない風景」から アリクイの夫婦 についての記述]
たとえば僕が覚えてるのは、フランクフルトの動物園で見たアリクイの夫婦だ。
それは8年くらい前のことで、季節は冬だった。恐ろしく寒い午後だった。
空はどんよりと曇って雪が降り出しそうだった。目につくあらゆるものが凍りついていた。あまりにも寒かったので、動物園には見物客の姿はなかった。僕が1時間以上その動物園の中を歩いているうちに出会った人間は、全部合わせて5人くらいのものだったと思う。
でもとにかくそこで僕はアリクイの夫婦を見たのだ。
それははじめのうち、とてもアリクイには見えなかった。それは何にも見えなかった。
それは檻の中に置き去りにされた大きな毛玉みたいだった。でも、よくよく見ると、その毛だらけの黒い大きなボールはアリクイの夫婦だった。
アリクイの夫婦が、これ以上しっかりとは抱き合えないだろうと思えるくらいしっかりと、ひとつに抱き合って眠っているのだ。
どこがくちばしでどこが目で耳か、どれが足でどれが手か、僕にはほとんど見極めることができなかった。
でもそれはとにかくしっかりと抱き合ったアリクイの夫婦だった。
檻の看板にもちゃんとアリクイと書いてあった。彼らは抱き合ったまま熟睡しているらしく、ぴくりとも動かなかった。
十分くらいじっと見ていたのだが、その間、本当に千歳の岩のように ぴくりとも動かなかった。
物語再開:
その話(医師メルのおはなし)を咀嚼しているうちに、4人はいずれも、自分たち夫婦の心が真の愛に包まれていないことに気づいてしまう。
その老夫婦と比べて、自分たちの愛の形が異形であることを認識してしまい、二組の夫婦は慄然としてしまった・・・・・のかもしれない。
彼らの誰もが思う―――自分達は今、ゆらぐ平衡の上に危うく立っているだけなのかもしれない、と。
少し強い風が吹いて波が大きくなれば、自分達は簡単に海の中に飲み込まれバラバラになってしまうことに気が付き・・・・・誰もが、心臓の鼓動の高まりを抑えることができない。
この2組の夫婦4人の問題点は、
誰一人として 自分がこの世で100%完璧なパートナーと結びついていると信じていないこと。
カーヴァーはこの作品で、うまくいかない夫婦の、ひとつの典型的パターンを提示している・・・・・・のかもしれない。
[幸せな夫婦の形は ほとんど一種類だけなのだが、・・・・うまく行かない夫婦の形は無数にある]
このような村上の言葉、どこかにあった気がします(99%確かです)。 もしなかったら・・・
「村上さん、ごめんなさい!!」
使用作品
1:愛について語るときに我々の語ること (村上春樹翻訳ライブラリー) 新書 – 2006/7/1
レイモンド カーヴァー (著), Raymond Carver (原著)