「使いみちのない風景」から同名のエッセイ(詩)『使いみちのない風景』

の途中一部を紹介してみます。

 

当然ですが、素敵な文章ですよ。

 

 

 

この本には3つのエッセイと、稲越功一さんのたくさんの写真が掲載されております。

『使いみちのない風景』

『ギリシャの島の達人カフェ』

『猫との旅』

です。

 

 

 

 

『使いみちのない風景』

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僕はどちらかといえば―――世の中に大多数の人はそうだろうと想像しているのだが―――規則的な生活を好み、なじんだ本や音楽に囲まれた生活を好む人間である。豪華な、あるいはエキゾティックな外食よりは、家でとる穏やかな食事の方が好きだし、どんな豪華な部屋にいるより、使い馴れた自分の机に向かって仕事をするのが好きだ。

 

もし人間を放浪型と定着型―――あるいは狩猟型と農耕型というべきか―――のふたつにカテゴリーに分類することができるなら、僕はかなりの確率で後者のほうに属することになると思う。

 

じゃあどうして定着型の人間が何年もに渡って そんなにあちこちと移り歩いたりしているのか、ということになるのだが。結論から言うなら、いささか逆説的なロジックになるけれど、結局のところ僕は

 

「定着すべき場所を求めて放浪している」ということになるのではないかと思う。

 

 

もうここからは一歩も動かない、我々はここに留まる、と決意できるような場所を求めて。

 

 

そんな場所はどこにもないよとあなたは言うかもしれない。言わないかもしれない。

 

 

しかし、いずれにせよ、少なくとも僕がやってきたことを旅行と呼ぶのはかなり難しいだろうと思う。

 

 

僕はこのような生活をとりあえず「移り住み」という風に定義しているわけだが、要するに早い話が 引っ越し なのだ。

 

だから僕の略歴にはおそらく「趣味は定期的な引っ越し」と書かれるべきなのだ。その方がずっと僕という人間についての事実を伝えているんじゃないかという気がする。

 

 

「住み移り」「旅行」とは基本的には、どれくらい長くそこに滞在するかによって区別されることになると思う。

 

 

つまり、ある程度の期間その場所に腰を据えて生活をすれば、それはおそらく「住み移り」の場ということになるし、短い時間でそこを通り過ぎていくのであれば、それはおそらく旅行の場ということになる。

 

僕の場合で言えば、そこで日々の料理を作り、仕事机をセットし、一応の本と音楽を揃えて―――、というのがその「生活をする」といことの具体的な定義になるだろう。

 

もう少しつっこんで言うなら、「住み移り」という行為には〈たしかに今は一時的な生活かもしれないけれど、もし気に入れば、この先ずっとここに住むようになるかもしれないのだ〉という可能性が含まれている。僕はそういう可能性の感覚を、あるいはコミットッメントの感覚を、愛しているのかもしれない。

 

 

でも旅行というのはそれとは少し違う。

 

 

一般的に言って、僕らは通り過ぎることを前提として旅行をしている。

あるいは、通り過ぎることを目的として旅行をしている。僕らは定着という静止的行為あるいは状況から一時的にせよ離れるために旅行に出ると言ってもいいだろう。

 

でも、そこには定着を打ち壊してしまうような崩壊はほとんどない。もちろん、まったくないというわけではないけれど、その可能性は極めて微小なものである。

 

 

『旅情』のキャサリン・ヘッバーン は旅先で、ロッサノ・ブラッツィに強く惹かれはするけれど、彼女はやはり最後には予定調和的にヴェネッツィアを後にすることになる。

 

 

 

あなたのまわりには、どこかに旅行に出たきり二度と戻ってこなかった友人なり知人なりがいますか?

 

少なくとも僕の周りにはいない。

 

 

もちろん原則としてということだけれど、旅行に出た人々は、遅かれ早かれ必ずもとの場所に戻ってくる。

 

旅行をしていてたまに気に入った場所に出会うと、僕らはよくこういう風に言うことがある。

 

「こういうところに住めるといいねえ」

 

でもそれは大抵の場合、ただの言葉であり、実現の見込みのない夢である。

 

 自分たちがそこにずっと住んだりしないであろうことは、僕ら自身にもよくわかっている。それがどれはど感じの良い素敵な場所であれ、美しい風景であれ、所詮それを目の前にしている我々は旅行者であり、旅行者にとって一番重要なことは、通り過ぎていくという作業なのだ。

 

 

「移動するスピードに現実を追いつかせるな」、それが旅行者のモットーである。

 

 

でも「住み移り」の場合、我々を囲んでいるあらゆる風景は、我々の存在そのものにもっとコミットメントを持つようになる。

 

それは過ぎ去っていく束の間の風景ではない。我々はそれらの風景と現実的に折り合いをつけなくてはならない。それらの風景に対して、我々はそれなりの判断を下さなければならない。我々は何を取り、何を捨てるか、何を受け入れ、何を受け入れないか、というようなことをきちんと決断しなくてはならない。

 

 

好むと好まざるとにかかわらず、そこにはある種の現実的責任のようなものが生じることになる。

 

 

 

「これは綺麗な景色だな」

「こういうところにずっと住めたら素敵でしょうね」

 

だけでは済まない ということだ。

 

我々はその風景の奥にあるものを解析し、引き受けていかなくてはならないということだ。

 

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使用書籍

使いみちのない風景 (中公文庫) 文庫 – 1998/8/18

村上 春樹 (著), 稲越 功一 (写真)