象工場のハッピーエンド:『A DAY in THE LIFE』と『万年筆』について
村上の短いエッセイというかステイトメントというか、詩みたいなもの、を紹介してみます。最初は「変な本?」と思いましたが、ほんとうに、彼の本は常に、「シンプル」ではないのです。何かを言っております。
『A DAY in THE LIFE』
僕が朝仕事に行こうとしてバスを待っていると、知らない小母さんがやってきて、あんたはひょっとしてこれから象工場に行くところじゃないかと僕に訊いた。そうですよ、と僕は答えた。僕は象工場に勤めているのだ。
小母さんはしばらくのあいだ僕の顔とか背格好とか靴とか鞄とかをじろじろと眺めていた。僕もそのあいだ小母さんのことを眺めた。小母さんは40だか50だかといったあたりで、まあまあこざっぱりした格好をしていた。前につばのついた野球帽のような帽子をかぶって、赤いセルロイド縁の眼鏡をかけて、茶色いざっくりとしたワンピースを着て、白いテニス・シューズをはいていた。
「どうして象工場に行くところだってわかったんです?」と僕は小母さんに訊ねてみた。僕は二週間ばかり前にこのあたりに越して来たばかりで、象工場で働いているということは誰にも教えていなかったし、どうしてそのことが彼女にわかったのか、とても不思議だったのだ。
「そりゃまあわかりますとも」と小母さんはわけ知り顔に言った。「長く象工場で働いていらっしゃる方にはそれなりのかんじが出てくるもんでしょう」
「そんなもんですかね」と僕は言った。そう言われて悪い気はしなかった。象工場に勤めているというのは、この地方ではちょっとしたことなのだ。誰もが象工場に勤められるというわけのものじゃない。
僕と小母さんはそれからバスが来るまで、象工場の話をしたり選挙の話をしたりした。僕と小母さんの行く先は別だったので、我々は「さよなら」「それでは」と言って、違うバスに乗った。
小母さんの眼鏡の奥が太陽にキラッと光った。
バスを降りると、まわりはいつものように象工場に向かう職工たちでいっぱいだった。みんな弁当箱の入った紙袋を手にさげていた。
何人かが僕に向かって手をあげたり目礼をしたりした。でも誰ひとりとして口をきかなかった。これから一日夕暮れまで象を作りつづけるのだと思うと、みんな緊張して、うまく言葉が出てこないのだ。
我々は川に沿ったアスファルト道を黙々と工場に向けて歩いた。道はゆるい上り坂で、道ばたのところどころに百日紅の花(サルスベリ)が咲いていた。来月にはきんもくせいの花の香りでいっぱいになるはずだ。職工たちの足音と弁当箱のかたかたという音があたりに充ちていた。
工場の入口では守衛が我々の職業カードを一枚一枚チェックした。守衛は僕たちの顔なんてぜんぶ覚えているはずのだけど、それでも、一枚一枚のカードをきちんと調べる。象工場では秩序というものがとても大事にされているのだ。
「けっこうです」と言って守衛は僕にカードを返してくれる。「がんばって下さい」と彼は言う。
「ありがとう」と僕は言う。
それから僕は更衣室に行って制服を着て、帽子をかぶる。僕の帽子には 緑の線が二本 入っている ※。
もう五年間ここで働いているというしるしなのだ。更衣室を出ると最終工程に入って、牙入れさえ終われば完成という象たちが一生懸命に鳴いている声が聞こえる。
そんな具合に、象工場の一日が始まるのだ。
※:何かの状況を記述しているように思うのは私だけではないと思います。村上の文章は ぼぉーっと 読めることは少ないのです。
ただで働いてくれるのなら、バッジ(Badges)や 金のラインの2本や3本、胸や帽子につけてやるくらい、どおーってことありません。人間って、他愛のないものに惹かれるんですね。
ただ、ほとんどの場合、最後には気が付くんですけど・・・・・これっていったい何だったの?!・・・・って。
象工場って、何の工場?
『万年筆』
万年筆屋は大通りを二筋ばかりはずれていた、古い商店街のまんなかあたりにあった。間口はガラス二枚分、看板が出ているわけでもなく、ただ表札のわきに「万年筆舗」と小さく書き込まれているだけだ。おそろしくたてつけの悪いガラス戸は、開けてからきちんと閉まるまでに一週間はかかりそうな代物である。
もちろん紹介状がなくてはならない。時間もかかるし、金もかかる。でもね、夢みたいにぴったりとくる万年筆を作ってくれるんだ、と友人は言った。だから 僕は来た。
主人は六十ばかり、森の奥に棲む巨大な鳥のような風貌である。
「手を出しなさい」とその鳥は言った。
彼は僕の指の一本一本の長さと太さを測り、皮膚の脂気を確かめ、縫い針の先で爪の硬さを調べた。それから僕の手に残っている様々な傷あとをノートにメモする。こうしてみると手にはいろんな傷あとがついているものだ。
「服を脱ぎなさい」と彼は手短に言う。
僕はなんだかよくわからないままシャツを脱ぐ。
ズボンを脱ごうとしたところで、主人は慌てて押しとどめる。いや、上だけでいいんだ。
彼は僕の背中にまわり、背骨を上から順に指で押さえていく。
「人間というものはね、背骨のひとつひとつでものを考え、字を書くんだよ」と彼は言う。
「だからあたしは、その人の背骨にあわせた万年筆しか作らんのさ」
そして彼は僕の歳を訊ね、生まれを訊ね、月収を訊ねる。そして最後に、この万年筆でいったい何を書くつもりなんだ、と訊ねる。
三か月後、万年筆はできあがってきた。夢のように体にぴたりと馴染む万年筆だった。しかしもちろん、それで夢のような文章が書けるというわけじゃない。
夢のように体に馴染む文章を売ってくれる店では、僕はズボンを脱いだところで間に合わないかもしれない。
[使用書籍]
象工場のハッピーエンド (新潮文庫) 文庫 – 1986/12/20