『翻訳すること、翻訳されること』「雑文集」から。

 

村上が国際交流基金という団体が出している雑誌「国際交流」のために書いた文章だそうです。

 

        クリスマス近し?

 

 

過去に書いた作品は、よほどのことがなければまず読み返しません。「過去は振り返らない」と言うといかにもかっこいいけれど、自分の小説を手に取るのはなんとなく気恥しいし、読み返したってどうせ気に入らないことはわかっているから、それよりは前を向いて、次にやることについて考えたい。

 

だから昔の本の中で、自分が何をどんな風に書いたか、すっかり忘れてしまっていることがよくあります。読者に「あの本のこれこれこういうところは、どういう意味なのですか?」と訊かれて、「そんなところあったっけかな」と首をひねるのはしょっちゅです。何かの本か雑誌で目についた文章を読んでいて、「これ、なかなか悪くないじゃないか」と思ったら、それが実は僕の書いた文章の引用だったりすることもあります。いぶん厚かましいようですが・・・・・・。

 

 

でも逆に、引用されているのが、いやな、気にくわない文章だったりすると、「あ、これは僕の書いた文章だ」と必ず一目で見分けられる。どうしてかわからないけれど、いつもそうです。よいところはだいたい忘れてしまって、不満のあるところばかりよく覚えているなんだか不思議なものですね。

 

 

とにかくそのようなわけで、僕の小説が、書き上げた何年かの後に外国語に翻訳されて出版される頃には、その本の中で自分がいったい何を書いたのか、うまく思い出せなくなっていることが多い。もちろん粗筋をすっかり忘れるというようなことはないけれど少なくともディテイルの大半は、まるで夏の 驟雨 の湿り気がアスファルト道路の路面からさっと音もなく蒸発してしまうみたいに、僕の記憶から―――もともとがそれはど上等な記憶でもないんだけど―――きれいに消えてしまっています。

 

*:藤沢周平の小説で「驟(はし)り雨」という素敵な小説があります。 セントラル・ルーム (以下を参照) はありませんけど・・・・。

 

僕は英語で翻訳された自分の小説は、いちおうぱらぱらと読んでみるのですが、読みだすとけっこう面白くて(というのは自分で筋を忘れてしまっているから)、わくわくしたり笑ったりしながら最後まですっと読み終えてしまったりする。

 

だから後で翻訳者に「翻訳はどうでした?」と訊かれても、「いや、すらすら読めましたよ。いいんじゃないんですか」と答えるしかない。「ここはどうで、あそこはああで・・・・・」というような技術的な指摘はまったくといっていいくらいできない。自分の小説が翻訳されるのはどんな感じのするものですか、と訊かれても、正直言ってそういう実感はほとんどありません。

 

でも、すらすらとよどみなく読めて、それで楽しめたのなら、その翻訳は翻訳としての義務を十分果たしていることになるだろう―――というのが僕の原著者としての基本的なスタンスです。僕の考える物語、設定する物語というのは、つまりはそういうものなのだから。その物語がそれ以上に何を語るかというのは、その「物語」の部分が有効にクリアされてからはじまる「フロント・ルーム」の、あるいはその奥にある「セントラル・ルーム」の問題になります。

 

          Each of readers has own "central-room" ?

 

自分の作品が他言語にトランスフォームされることの喜びの一つは、僕にとっては、こういうふうに自分の作品を別の形で読み返せるというところにある、と言ってもいいでしょう。日本語のままでならまず読み返されなかったはずの自作を、それが誰かの手によって別の言語に置き換えられたことで、しかるべき距離をおいて振り返り、見直し、言うならば準第三者としてクールに享受することができる。そうすることによって、自分自身というものを、違った場所から再査定することもできる。だから僕は、僕の小説訳してくれる翻訳者たちにとても感謝しています。確かに僕の本が外国の読者の手に取られるというのも、非常にうれしいことなのだけれど、それと同時に、僕の本が僕自身に読まれる―――これはいまのところ残念ながら英語の場合に限られているのだけれど―――のも、僕にとってはなかなかうれしいことなのです。

 

言いかえれば、自分の創り出した文章世界が、他の言語システムに入れ替えられることによって、僕は僕自身との間に一つクッションをつくることができたような気がして、それで結構ほっとできるのです。

 

 

それならばいっそ、はじめから外国語で書けばいいじゃないかということになるんだけど、でも技術的、能力的な問題があって、そう簡単にはいかない。だから僕はこれまで僕なりに、母国語たる日本語を頭の中でいったんいったん疑似外国語化して―――つまり自己意識内における言語の生来的日常性を回避して―――文章を構築し、それを使って小説を書こうと努めてきたとも言えるのではないかと思います。思い返してみると、最初から一貫してそういうことをしてきたような気がする。

 

そういう面では、僕の創作作業は翻訳作業と密接に呼応している―――というかむしろ表裏一体と言ってもいいような部分があるのかもしれません。僕自身、翻訳の仕事(英語⇒日本語)を結構長くやっているので、翻訳というものがどれほど大変な作業であり、またどれほど楽しい作業であるかということが、それなりにわかっています。あるいはまた、一人一人の翻訳家にとって、どれくらい大きくテキストの持ち味が変わっているかということもある程度わかっています。

 

すぐれた翻訳にいちばん必要とされるものは言うまでもなく語学力だけれど、それに劣らず―――とりわけフィクションの場合―――必要なのは個人的な偏見に満ちた愛ではないかと思う。 極端に言ってしまえば、それさえあれば、あとは何もいらないんじゃないかとさえ、僕は考えます。僕が自分の作品の翻訳に、何を一番に求めるかと言えば、まさにそれです。偏見に満ちた愛こそは、僕がこの不確かな世界にあって、最も偏見に満ちて愛するものの一つなのです

 

                         Coffee time?

 

 

私事ですけど、自分も日本語で文章を書く際、これを英語にするとどんな英文になるのか、と考える癖がついております。実際に英語にしてみたりします。 ですから、このブログでも、わたしの自筆部分はかなり英文にしやすいはずです。英文にするとき、不必要な英単語の介在や類似語句の重複は起こらないはずです(読む人を信用する)。

余計なことですが、わたしは日本語を書くことが苦手で、自分の周りにある英文を必要にせまられて日本語訳するうちにできあがった英文逐語訳日本語です。村上に類似しておりますが、いきさつも異なりできあがった文章も―――当然―――村上ほど端正ではありません。ですから、中学生の英文和訳のような懐かしい香りがするでしょ?

 

村上の、最近の小説文章「島崎藤村」とか「川端康成」*の香りもする「逐語訳的美文」・・・・名文だと思います。わたしは、彼オリジナルの、「村上風日本語」だと密かに考えております。歌で言えばサザンオールスターズの桑田さんの歌唱法みたいなものです。

 

村上は、好き嫌いは不明ですが、桑田さんの、あの巻き舌の歌い方が日本語として気になるようです。 確か・・・・以前の何かのエッセイに書いていたはずです。 わたしは、あそこまで突き抜けると、何かの達成であることには違いないと思います。 

 

 

*:昔の作家というとで、中学で出てくるこの二人の名前を思いついたので書いただけです。ほんとは、昔のひとなら誰でもOKです。ただ、まちがいなく美文だと思います。

          島崎藤村

 

 

使用書籍

村上春樹 雑文集 (新潮文庫) 文庫 – 2015/10/28

村上 春樹 (著)