「村上朝日堂はいかにして鍛えられたか」:エッセイ『文学全集っていったいなんなんだろう』

 

村上春樹の、「 啖呵の切り方」について。

 

 

この本には「週刊朝日」に1995年11月からほぼ1年間掲載されたエッセイがまとめられたものです。そうです、今から28年前、村上春樹が47歳ぐらいの時に書かれたものです。

 

先行するエッセイ、週刊誌のために書かれた、村上最初の「村上朝日堂 はいほー!」から、ほぼ10年経っての、同じ週刊誌のためのエッセイです。ですから、多くの読者から「よくぞ村上朝日堂を再開してくれた」という温かい励ましの言葉がたくさん届いたようです。

 

 

というわけで、前置きが長くなりましたが、本題『文学全集っていったいなんなんだろう』に入ります:

おそらく、村上にとって、ある種のトラウマ:PTSD になった話だと思います。

 

以下に記述してみますが、村上の

 

「おそらく、僕の担当編集者は、僕の小説など読んだこともないのでは?」

 

という疑義的推測もあながち的外れではない、むしろ正解に限りなく近いと私は思います。 

 

 

確かに、文学全集であり、スペースという縛り、他の作家との兼ね合いがあるにせよ、無理してでも『ノルウェイの森』(1987年)は無理だとしても、『羊をめぐる冒険』(1982年)を掲載するスペースはあったはずです(これも無理筋かな?)。

私が好きな、スペース的にも最適の(もちろん、冗談です)、中編小説『国境の南、太陽の西』(1992年)出版との時期的整合性は不明ですが・・・・。

 

 

 

実際のエッセイ文章:

 

  かなり以前、外国に住んでいたころ、久しぶりに一時帰国したときにある出版社から電話があった。「今度当社で昭和文学の全集を出すのだが、そこにあなたの1973年のピンボール』を入れたい」という話だった。僕はそう言っていただけるのは光栄だが、『ピンボール』が、全集にいれるのに相応しい作品だとは思えない。別のものに差し替えてはもらえまいか」と言った。

 

 すると相手は、「話は既に進行しているし、長さからいってもあの作品が妥当なので」というようなことを、大変まわりくどくではあるけれど、言った。

 

 

時代とか、作家の名前とか、年齢とかには関係なく―――あるいは、出版社と作家の優位関係は別の所におくとして―――この担当編集者さんは、小説家にとって作品がどういうものか、ということの認識が完全に欠如していたのでしょう:

 

 

長さからいっても妥当なのでと言われても、ちょっと困る。

 

僕は文章の、はかり売りをしているわけではない。

 

 

それに話していて、この人は僕の作品なんて全然読んでいないか、あるいは読んでいても評価してないかだろうという気が、かなりひしひしとした。それはもちろん、ちっともちっとも構わないのだけれど、気分的に納得できなかったのは、

 

全集に入れてあげようというのに、そんなにうるさいことを言わなくてもいいだろう

 

という姿勢がほの見えることだった。少なくとも、僕はそう感じた。悪意はなかったのかもしれない。あるいは、そういう言い方しかできない人だったのかもしれない。

 

 

 でも正直なところ、自分はまだ文学全集に入れてもらうほど立派な作家でもないと僕は感じていたから、「かまいません、面倒でしたら、どうぞ全集から外してください」と申し出た。すると相手は「でも、もうパンフレットに印刷してしまったんです」と彼は言った。

 

「パンフレットって?」

 

「つまりですね、全集のパンフレットの見出しに、『谷崎潤一郎から村上春樹まで』って刷ったんです、今更替えられないんです」と相手は言った。

 

 

 僕はよく理解できなかったので質問した。「つかぬ事をうかがいますが、僕はその話を以前に伺っていましたか?」

 

「いいえ」と相手は言った。

 

だとすれば、その会社は作品掲載の承諾なしに僕の名前をパンフレットに印刷してしまって、事後承諾を求めていることになる。僕は決して偏屈狭量人間ではない―――と思っている―――が、かりにも腕一本で飯を食っている人間だから、長距離線鉄道貨物みたいな扱いをされたくない。

「パンフレットのことは、僕にはよくわからない。もし収録作品が差し替えられないなら、この話はお断りしたい」と言って電話を切った。

  その後、何度か連絡があったが、話は前に進まなかった・・・・・。

 

村上は言います:

 

ものを書く、ゼロから何かを生み出す、というのは所詮は切った張ったの世界である。みんなにニコニコといい顔をすることなんてできないし、心ならずも血が流れることだってある。その責は僕がきっちりと両肩に負って生きて行くしかない。

 

 

 

  【どんな職業であれ、仕事というからには、それはもう想像以上に辛いものがあることが本当によくわかる文章なのです。

文章を自由に紡ぐ作家であるからこそ、書くということは綺麗ごとでは済まない、ということでしょう。

 

 おそらく、この担当編集者はどの作家に対しても、それぞれの作品に対するリスペクトはなく、全集の空きスペースと小説の長さのとの関係で、説明・説得したのだと思う。 97 % くらい。

 

文学全集に載せてもいいかなという作品のクオリティーには、作家が非常に神経質になるのは当然なのです。文学全集が2年に1回発行されるのでしたら・・・・話は別ですが。

 

 加えて、これは良く知られている話ですが、村上は、自身にとっての最初(初期)の小説、『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』は海外での翻訳(英語)出版を許可しておりません、・・・そういうことなのです。

 

 

担当編集者というより、出版社の罪を感じてしまいます。彼に酷な仕事(説得)を押し付けたと・・・・。同じようなことが、他の作家との間にも起こっていた、と想像するのは簡単なのです。しつこいですが、  誰でも、自分でも満足していない作品(研究)を、代表作のように正面に押し出されるのだけは絶対に困るのです。自分の経歴としてなら、しょうがないですけれど 

 

 

 

[使用書籍]

村上朝日堂はいかにして鍛えられたか (新潮文庫) 文庫 – 1999/7/28

村上 春樹 (著), 安西 水丸 (イラスト)