『ライ麦畑でつかまえて』、あるいは『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は何故私たちの心に深く残ってしまうのか? 

 

※:『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は、村上春樹が『The Catcher in the Rye』を日本語に翻訳する際に、先行する野崎 孝訳の、非常にポピュラーである『ライ麦畑でつかまえて』との区別を主な理由として、使ったタイトルです。

 

 

『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』にそっと書いてある、村上春樹の小説記述の立ち位置と理想。 村上は言います、

 

「あなたの書いたその小説って、読者をどれくらい物理的に動かせるのですか?」

 

 

この本『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』の全体をまとめて記述しても意味は薄まり、結局つまらない―ーーーまとめのまとめ―ー―ー概略を記すことになります。

 

サリンジャーの作品といえば『キャッチャー・イン・ザ・ライ』、『ナイン・ストーリーズ』、そして『フラニーとズーイ』ですが、この本で対象としているのは、実質的なサリンジャーの出世作である『キャッチャー・イン・ザ・ライ』です。世界中で読まれており、ジョン・レノンの狙撃射殺の原因となったり、アメリカ大統領ロナルド・レーガン襲撃のきっかけということでも有名です。

 

村上春樹がこの本『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』で本当に言いたかったことは、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』やサリンジャーの概略ではなく―――あるいは特定の細部でもなく―――絶対覚えていて欲しいと思っているのは、以下の記述要旨だと思う。

 

 

村上は言います、

 

『キャッチャー・イン・ザ・ライ』という作品を、いわゆる「知的な」見地から、あるいはまた現象的な見地から批判することは、決して難しいことではない。そのような作業は実際に同書の刊行当時にも行われていたし、現在でもやはり行われているようだ。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は文芸批評家が言うところの「構造的に完成された小説」ではないし、いくつかの根本的な疵や、無防備な弱点をそこに見出すのはむしろ簡単であるだろう。またその作品が置かれた社会的な位置について、批判的に論評することも簡単である。しかしそのような事実にも関わらず、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は、ほかのたいていの「構造的に完成された小説」よりも、物語として優れて魅力的であり、読者の精神を深く揺り動かす。

 

その軽妙で一貫した文体は、読む者の心に確実に食い込んでいく。その事実は誰にも否定できないはずだ。 いや、この小説はむしろその構造的な欠点のゆえに、構造性をある部分で拒絶するがゆえに、その捨て身とも言える無防備さのゆえに、読者の心に深く食い込んでくるのだ、と言い切ってしまうことも可能であるかもしれない。

 

 『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は進化していく小説ではない。主人公のホールディン・コールフィールドが永遠に十六歳であるのと同じように、そこにしっかりと留まり、読者の心のひとつのありかとして機能することを宿命づけられた小説なのだ。だからこそ、このような小説システムの分離不可能な一部としての欠点や無防備さを、それ自体として独立して取り上げて、解剖学的にあげつらうのは、文芸批評の手法としてフェアではないと訳者は考える

 

小説(物語)にとってもっとも大事なことは、読む前と読んだ後とで、読者が物理的にどれくらい動かされているかという点にあるのだ。

 

  そして『キャッチャー・イン・ザ・ライ』が読者を現実に「移動させている」ことは、誰にも打消し難い事実である。我々はまずその事実を認めなくてはならない。その魔術のありようを胸に刻み込まなくてはならない。すべては、そこから始まるのだ。

 

  そしてもうひとつ大事なことがある。それはこの五十年ばかりのあいだに『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読んだ多くの(おそらく数百万という数の)青年たちが「自分は孤独ではないんだ」と感じたという事実だ。それは「偉大な達成」という以外の何物でもないだろう。

 

 

 

追記:

【村上春樹の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』と野崎 孝の『ライ麦畑でつかまえて』の翻訳比較は、いつかします。】

 

 

使用書籍

1.翻訳夜話2 サリンジャー戦記 (文春新書) 新書 – 2003/7/19

村上 春樹 (著), 柴田 元幸 (著)

 

2.キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション) 新書 – 2006/4/1

J.D. サリンジャー (著), J.D. Salinger (原名)、村上 春樹 (訳)

 

3.ライ麦畑でつかまえて 単行本 – 1985/9/1

J.D.サリンジャー (著), 野崎  (著)