「レキシントンの幽霊」中の『トニー滝谷』: 服飾依存症の奥様に見られる、外側前頭前野(46野)の広義の機能障害

 

 大脳皮質の前頭前野の障害の症状のひとつとして、抑制機能の障害というのがある。研究者の中には、抑制機能、すなわち衝動的に物事を遂行してしまうことの抑制、これこそが前頭前野の主機能である、と言い切る人もおります。

 

 

さすがに、この仮説は極端すぎるでしょう。人間の前頭前野は、そこまで「アホ」ではありません。もちろん、サルにも失礼です。

 

前頭前野(46野)は、もっともっと素敵な機能をたくさん果たしております。  たとえば沢山の物事に直面した時に、その問題の解決法のひとつとして、私たちがその中にある共通項をみつけ、ほとんど無意識に行う「カテゴリー化」とか、・・・・。

 

なぜ、前頭前野の機能障害の事なんかを、唐突に、記述したかというと、「レキシントンの幽霊」の中の『トニー滝谷』という短編について、内容に少しだけ深く触れてみようと思ったからです。

 

[物語の概要]

この小説は、イラストレーター『トニー滝谷』の物語で、トニー滝谷がいかにできあがったのか、そして、彼の結婚、喪失を記述しております。彼は、彼の父親、滝谷省三郎がそうであったように、ほとんど感情というものを持っておりませんでした。『トニー滝谷』は細密画に天才的能力があり、エンジン・メカニックの描写などのイラストレーターとしてひっぱりだこなのです。何せ、彼の作品は、写真よりも正確な描写なのですから。ある日、彼の所にイラストレイションの原稿を取りに来た出版社の女の子を見て、恋に落ちてしまったのです。もちろん、彼のアタックが結実し結婚します。

 結婚後、二人は幸せな日々を過ごしているのですが、ひとつだけ困ったことがあります。それは、妻(奥様)があまりにも多くの服を買いすぎることだった。洋服を目の前にすると、彼女は全く抑制というものが効かなくなるのです。家の大きなクローゼットには、毎日変えても着きれないくらいの服で満杯で、彼女はそれでも、あたらしい服を買う気満々なのです

ただ、彼女も自覚しているのです。自分が、中毒性の洋服渇望症であることを。 そうです、彼女は十分に認識しているのです。ただただ、単純に我慢できなかった。がまんできないのです(抑制機能障害?)。

 

彼女は夫の、「少し服を買うのを控えたらどうだろう。そんなに沢山の高価な服は必要かな?」に応じて、デパートの洋服屋を呼んで、服の返品をします。

 ただ、その後、ずっと、彼女は返品した服のことで頭の中がいっぱいです。彼女は返品した服をすべて覚えているのですある日、車を運転していての信号待ちの時も例外ではありませんでした。失った服の事を考えていると心拍数は上がり、呼吸も過呼吸になりほとんど意識を失う寸前でした。信号が青になり彼女は何かに促されるように急アクセルを踏んだそのとき、交差点を黄色信号で突っ込んできた大型トラックが横から、彼女の車の運転席に突っ込んできた。ひとたまりもありませんでした。

 

トニー滝谷に残されたのはクローゼットいっぱいの服と靴だけだった。

トニー滝谷は、妻を忘れられず、妻と全く同じサイズの女性を探し、彼の事務仕事をしてもらうことにします。ただ、その際の条件がひとつだけあり、それは仕事中、妻の服と靴を身につけてもらいたい、という奇妙なことなのです。仕事の求人に応募してきた女性は、考えた末、条件を快諾し、妻の服、靴を好きなだけ貰い帰宅します。彼女が帰ってから、トニー滝谷は考え直し、その女性に「この話は忘れて欲しい」と伝えました。そしてその後、彼は、すべての妻の服を始末した。

 

 しばらく経つと、トニー滝谷には欠落感だけが残り、時には妻の顔でさえうまく思い出せなくなる。そして、服を諦めた時の彼女の、静かな嗚咽のみが記憶の中によみがえって来た。ある種の聴覚、嗅覚情報は頑固に残るのです。時に、視覚情報よりも、ということです。

  トニー滝谷は、その後、中古レコード屋を呼んで持っていた貴重なレコードをすべて処分した。レコードの山がすっかり消えてしまうと、トニー滝谷は本当にひとりぼっちになった。

 

 

※  1960年代にテレビで大活躍していた芸人に「トニー  谷」という芸人がいました。彼は、髪の毛の色もスタイルも、そして顔を含めての風貌も、今で言えば完全なハーフでした。非常にアクの強い芸風で、ソロバンを楽器のようにジャラジャラ鳴らし「あなたの、お名前、何て―の?  ♪♪」というフレーズで一世を風靡しました。この物語との直接の関連はありませんが、間接の関連はあるかもしれません。

 

使用小説

レキシントンの幽霊 (文春文庫) 文庫 – 1999/10/8

村上 春樹 (著)