何をやめればお金が貯まると思う? ブログネタ:何をやめればお金が貯まると思う? 参加中


お金を貯めようと思うことをやめる。

実際私はこれでお金が貯まるようになりました。
なんか、知らないうちにお金が貯まっているという好サイクルに突入してます。
ぶっちゃけ、貯めようとしていたときより貯まっています。

両親や友達のためにも思い切ってお金使えてるし、
今の自分の方がイキイキしている気がするし、そんな私が自分は好きです。



何かを手に入れようと思うとき、その手に入れようという思いを捨てるというのは方程式的なものなのかも。

そう、すべてはもう手にある。手にあるものを人は求めようとはしないと思う。


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ゴーギャン展を見に行きました。

ゴーギャン……有名な方ですが、好きでも嫌いでもない画家……ふーんとしか思えない画家です。
好きでも嫌いでもない。つまりは興味の対象外。
しいていえば、どうしてこんなに興味が持てないのだろう……という意味でしか興味がございません(笑)

それでも見に行った理由は、彼の最高傑作と言われている作品「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」が来たので、一度は見にいっておこうかな、きっともう出てこないだろうな。というノリです(笑)

なんですが……やっぱり……な感じでした。
正直、おもしろいなーとも、感動もほとんどなく、純粋にいいなあとも思えない。
構図なんかはうまいなあ……とは思いましたけど。それだけ……みたいな。


正直、ここまで何も感じさせてくれない教科書に載ってる画家ってそうそういない。
昔は、変な絵だなーとか、何も感じなかった画家でも、今の私だったらそれなりに何かを感じたりするから。
ここまで何も感じさせてくれないと、どうしてなのだろう?と、考えたくなり、その理由を色々考えます。



私は近視なので、奥にすぐ視点がいかないからなのだろうか……とか。
→これは関係あるかも。「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」は、奥に視点を持っていくと、神気みたいなものを感じたような気がしました。よくわからないけれど、澄んだ…遺跡なんかで感じられそうな感じです。

あと、実際西洋人と日本人では、構図で意識するポイントが違うとかも聞きました。

日本人は比較的平面的だったかな?だけど、西洋人は奥行きのことを常に考えているみたいなことを聞きました。


彼が使っている色は波動の低い色が多く、波動が高い私とは引き合わないのかなーとか。

タヒチで描いた絵はそんなに認められなかったみたいで、その絵を認めさせるために、出版までしたみたいなことが、美術館の解説に書いてあったのですが、そういう彼の姿勢とか。
→正直、うーんだと思いました。私は、絵って、見て感じてもらって、いいかどうか、好きかどうか、まあ、認めてくれるもしないも、絵を見てもらう人の自由だと思うので。そこまですることに対して引きました。そして、そんな人間性が私とはあわないのかなーとか。

あと、絵に書いてある題材に意味付けしすぎなんじゃないか……とか。
(意味を言い出すと、面白かった現代アーティストでもとたんに面白くなくなったりします。全てに意味を求める人もいるので、そういう人をだまくらかすには意味付けは有効な手段だとは思いますが……意味があっても面白いものは面白いし、意味がなくても面白いものは面白い、それ以上でも以下でもないと思います)



同じく、ゴーギャンに感動を覚えなかった人の意見

「結局、彼は絵が描けて幸せだったんじゃない?幸せなものはつまらないと思うから」

これも同感!小説だって人が悩んだりしているから面白い部分があると思う




まあ、そんなこんななのですが、考えてももちろん答えは出ず……

余計に、どうして興味わかないんだろう……という思いばかりが膨れあがり、なんと、もう一回ゴーギャン展を見に行ってしまいました。(どんな感動した画家でも、会期中に二回も足を運んだことなんて実は私は一度もございません)






二回目は、前回の反省を踏まえ、意識的に視点を絵の奥に持っていくことしました。


そのことを意識して見ると、新たに見えてきたことがありました。

印象派っぽい絵を描いていたときは、絵が自動的に視点を奥に連れていってくれたのですが、

タヒチから帰ってきたときは、かなり能動さが要求されるような気がしました。

絵は、絵が手を取って自動的に奥には連れていってはくれない。自分の目を積極的に動かして奥に行こうとしないと、奥の様子を探ることができにくいというか……


まあ、これが野生というものなのかもしれませんが……

野生動物は受動的であるだけでは生きていけないと思いますし……つまりは能動性が求められる気もしますし……


私、ゴーギャンについて書かれた本はひとつも読んだことないのですが、

かなりオレオレな人だったんじゃないだろうか……

相手に合わせるようなことをしないというか……お前が動けよ!みたいな……


だから絵も認めてもらえないし、見てる人が動かないといけないような絵を描いているんじゃないのかなあ……


人に認めてもらうには、相手に合わせる必要があるんじゃないかなあと思います。もしくは、そういうのを認めてもらう人達の中にいけばかなり楽に認めてもらえるのですが……

(言い続けて、力押しして相手に認めさせるということも出来ると思いますが、パワーも時間がかかり、楽なものではないと思う。)



のくせ、人に認めてもらいたいという気持ちは人一倍で。


だから、自分の絵を認めてもらうために本を出版したり、

絵のモチーフの意味を定義したり……(絵に描いてあるもの全てに意味づけすることで人に認めさせようとしているのかもしれません。仕事でもクライアントを納得させるため、意味を作れと言われる)


あとこのタイトル「我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへ行くのか」も人に認めてほしくてつけたものなのかも。これは、確実に人の気を引けるタイトルだと思うので。彼はもしかしたら、そういうことをわかっていたのかも。絵のモチーフにも言葉のむなしさを象徴しているものもありますし。


でも、いくら意味づけされても、私にとって作品本体に力がないから、あまり説得力がないというか……

意味づけされていることに価値を見いだす人は別なのでしょうが……




と、まあいろいろと気づきはあったのですが、やはり彼の絵から感じるものはなく……なのでした。


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なんか、とりとめのない日記ですが……


まあとにかく、

何かを手に入れようと思うとき、その手に入れようという思いを捨てるというのを方程式とするならば、

ゴーギャンは「認められたい!」と思う心を捨てるべきだったのかもしれないなあと思いました。

(真実の彼の思いははどうだったのかわかりませんが……)


以上、ゴーギャン好きの方々すみませんでした……

もし、よろしければゴーギャンのどの部分が好きなのか語っていただけると、今後の私のためになると思うのでよかったら、コメントくださいませ。


ちなみに、高校時代の美術の担任は、ゴーギャンは美術の世界い入るきっかけになるほど好きで、色彩や人間に心惹かれてるらしい。私にはよくわからないけれど。


ゴーギャンについての私と意見の合うブログ

人の真意を見抜くことができる目に憧れています


相手がどんな考えの元に、どういう気持ちで、いるのか
その結果、どういう言葉を使っていたり、どういう口調になってしまったり、どういう表情をしているのか、どういう態度を取ってるいるのか




キツイ口調、優しい口調
怒った表情・態度、優しい表情・態度、


そういったものに捕らわれず、惑わされず、相手の本当の心がわかるようになりたい。
それがわかればきっと、色々なネガティブな感情から解放されると思う。




優しい口調 = 優しさから出たもの、相手の善意から出たものなのか、
優しい口調 = 詐欺師のように、悪意があってだまそうとしていて、優しい口調のが人をだますのに有利と考えて、意図的にそういう口調を装っている場合なのか、




それが、わかれば悪い人にだまされるという恐怖がなくなると思う。
結果、人の優しさをちゃんと受け取れようになれると思う。


外見 = 中身 とはならないように、
怒った表情 = 怒ってるとは限らない。いつも怒ったような顔をしている人もいる。
笑顔 = 怒っていることを隠すための笑顔かもしれない。言っても無駄&場を荒げることが将来マイナスにつながると判断した場合は、怒っていてもそれを隠す人は多いと思う。




それを見抜いた上でもっと踏み込んで、相手が怒っている理由もわかるようになりたい。


わかれば、怒られるという恐怖から逃れることもできるし、
怒った理由に対して対応策を練ることもできるし、次回から気をつけることもできる。


心を読み取ることで解放されるネガティブな感情とは、『恐怖』 のことなのかもしれない……




-善悪も怒る基準も人の心の中にある-




寂静とは、それらを読み取ることができるようになることで到達できる境地なのかもしれない。
外界と自分を完全に遮断することにより、相手の気に引っ張られず、冷静に相手にみつめることでそれは可能となる。



そこに至れば、それができるようになれば、人はもっと楽に生きられるのかもしれない。

楽には生きられるようになるけど、ひとつ楽しみも減る気がします
相手の気に巻き込まれるという楽しみが


でも、今は、人の真意を見抜く目がほしい



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2008.10.26に、以前のブログに書いた日記です。

そして、この能力を使うには、

人に何を言われても動じない、どんなことが起こっても、そんな不動の心の上に成り立つものだなと、と思う。

(理由は、錯覚が起ったり、そのことに注意ばかり払って、他のことに目がいかなくなるから)

不動心ではなく、不動芯。

心が動かなくなるのは、人間としての心があたたかみがないような気がするので動いてもいいと思う。



心が動きつつも、芯はぶれずにキープする。これが 『頭は人間、心は神』 という感覚なのだろうか。



今年の一月、スピリチュアルカウンセラーさんからもらった、霊的レベルを上げるためにもらったテーマ。

少しはクリアできたのだろうか?

なんか、忙しくかったり、トラブル続きで、そこに注意を払うどころではなかったので……

いや、トラブル続きで逆に慣れたような気もします。


「○○に染まってる」と感じる瞬間 ブログネタ:「○○に染まってる」と感じる瞬間 参加中


最近はとにかくだるくて、仕事もやる気がないし、掃除以外の他のこともやる気がしない。

前は友達からのお誘いがあると全てウキウキしていたのだけれど、最近はめんどいなーと思うこともしばしば。

だるくても、やる気だけはなくなったことはなかったというのに。

だるくても、テキパキ動こうとがんばっていた……だけれど、最近は、がんばる気すらなくなってしまった……

というか、なんだかよくわからないけれど、がんばりたくない。


最近の合い言葉は 「 THE テキトー 」



プライベートでは、やる気ないでも大丈夫だけれど、仕事や人に対しては、それじゃいけないなあ……と思いつつも、もう出来なくて。

最近はその気持ちを受け入れることにした。


そうすると、見えてきたことがあった。





だるいなら、だるいように動いてみると、自分の今までの動きが優雅とはほど遠いものだったことに気づいた。

早く動こうとするのはいいのだけれど、無駄な動きが多く、見苦しい。


メールの返事はプライベートでも、いつも必ず返していたのだけれど、返すのが億劫で。

すると、返さない方がいいときがあることに気づいた。どんなときでも返すことが礼儀だと思っていたのだけれど。返すことによってウザイ人に見らていることもある。


いつでも品質とスピードを両立しなければならないことばかりではないことに気づいた。

とにかくスピードが要求される場面で、時間をかけて品質まで維持しようとするのは、俗にいうKYではなかろうか。

スピードのみが要求される場面では、品質が整ってなくても、早ければ、とても喜ばれることがわかった。




早く動くこと=良いこと、という価値観に染まりすぎていたのだと思った。

返事を必ずするということのように、全てをきちんとやること=良いこと、という価値観に染まりすぎていたのだと思った。

私は、なんでも全てにおいて気を配り一生懸命やることが良いこと、という考え方に染まりすぎていたのだと思った。



病は天からのギフトだとは言うけれど、

私が疲労に染まってしまった(5年ぐらい前から慢性疲労症候群なのです)のには、何かよくないものに染まり過ぎた結果で、天からのメッセージだと思った。

そして、思う。染まりきって、そのとき思ったように行動することにより、より自分を高めるための気づきが得られるのではないかと。




病気は治さない方がいいという人がいた。

その人は、「病気は体内に取り入れた毒素を排出する身体の智慧・作用だから治さない方がよい」と言ったのだけれど、

私は、別の意味でも治さない方がよいと思った。

治さないで、その時思ったように行動する。

さすれば何かを悟り、病も自然に消失していくのではないのだろうか。


私は病気に染まりきる。そして、自分に悪い作用を及ぼしている染まりをみつけようと思う。

悟りへの道が近くなったような気がしてます。


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【思いつきメモ1】

私は、一生懸命やりたいし、人の役に立ちたい。

自分のOKが、相手のOKではない場合もある。

そういうときに発生する、私を止める、相手のOKに導くための、手段が病気なのではないのかもと。


【思いつきメモ2】

一生懸命やりたい、でも、休みたい。でも、がんばり屋さんに見られたい。その願いを叶えるための理由として病気が発生したのかもと。

休むのには正統な理由がいる。そのためには、嫌だ、という理由はこの日本社会では許されない。

許される理由付けとして、私の体に病が発生したり、ひったくりにあうという自体が発生したのだと思う。