最近影響を受けた言葉 ブログネタ:最近影響を受けた言葉 参加中


疲れた時は「頑張った」チョキ
忙しい時は「充実している」ひらめき電球
と、言うようにしているんだそうです。

「疲れた」と言うとさらにドッと疲れてしまうダウン
「忙しい」は心を亡くすと書くから、言わないようにしている。

「言霊(ことだま)」ってあると思うから、
ネガティブな言葉よりポジティブな言葉を選ぶようにしているそうなんです

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このブログネタのネタふりの言葉(上記)に心を動かされています。


私という人間は、とても優柔不断な人間で、迷いが多くて、物事を決めるのにとても時間がかかります。
最近これでいいのかなあ……と思ってます。
迷いが多い、優柔不断、……これをポジティブに捕らえると、「慎重」ということになるのでしょうか。

でも、迷っているうちに、いろいろなチャンスが過ぎ去っていく気もするし。
(事実そういうことは今までありました)




自分でも、どうしてこんなに迷うんだろう……
とても優柔不断だと思うし、迷いすぎだと思う。

もっと、さっさと物事を決められたらなと思う。
そうすれば、風にのって生きられるのかなとも思う。

でも、迷っているときに進んでいけないことも確かなこと。
それが心の声に従うということだと思うから。


どうしたらいいのだろう……

迷っていることは、ただ座って迷ってるのではなく、
迷っているときは、迷いの原因を歩いて探したり、
人と話したり、
天に迷いの原因を聞いてみたらいいんじゃないのかなと、最近は思う。

そうすれば、迷いの雲は切れて、私の進む道がはっきりしてくるのかなと思った。


ちなみに、迷う原因は、なんなのかなーと考えると、
何かしたいことに対して、障害があるからのよう。
お金、噂話(評判)、ひっかかり事……直感的に微妙、世間のルール。

これらをクリアにして、その原因を解決していけば道が開けるのだろうか。



今、習い事をしたいと考えている。

その先生のところに、いくか正直迷っている。

1.お金が高い
2.先生のブログを読んでいて、なんか薄っぺらいなあと思う
3.年始にタロット占ってもらって、習い事で、「私は中身がないなあ」と感じるらしい。


まあ、お金はなんとかするとして、先生に対して「中身がないなあ……」と思うのはなあ……
いや、そういう人の下で何かを学ぶことに意味があるのかもしれない。
と、思ったのだけれど、学んでる途中に嫌になって逃げそうな気もする……
そういえば、過去そういうこともあったなあ……


私の第一目標は霊的レベルを上げること。
習い事を身に着けたい理由は、知識を身につけたいから。


この二つがクリアされて、楽しければそれでよい気もする。
そして、楽しいは、けっこうキーワードな気もする。



書いてて思った、こうやってブログ書いて思考を整理していくのも、迷い晴らすための、ひとつの方法になるみたい。
迷ったときはブログ書く!!!

書いて、整理して、確認事項をチェックして、動く。
今回は、その先生のところへ行って、霊的レベルが上がるか、求めている知識が身に付くかをチェックしよう。
霊的レベルが上がるかどうかは、スピリチュアルカウンセラーさんに聞く。
知識が身に付くかは先生本人に確かめる。楽しいかどうかは教室を見学する。

こんな感じかな。
がんばろうっと!!!!!


と、書きつつまだ迷っているのであった……
なんでなのかなあ……
GW終わってやる気満々? やる気出ない? ブログネタ:GW終わってやる気満々? やる気出ない? 参加中


GW終わって、本当にやる気がなかった。

主に仕事に対して。

仕事で自分が作り出したものに対して、お客様から喜びの声をもらっても、嬉しくなかった。

こんなこと今までなかったのに。

風邪をひいたせいかもしれませんが……激しい咳が出る風邪。病院に行ったら症状がものすごくやわらいだけど。

でも、去年からずっと忙しくて、残業続きで、疲れがたまっているのも確か。

ピークは、注意力の欠如から、自転車で人にぶつかったり、ひったくりにあったり散々。

仕事のミスも一昨年の5倍ぐらいはしている。

メールでいただいた文章をまともに、読むことができないかったり、(異常に言葉を読み飛ばしてい)インプットできなかったり。クライアントには細かいミスでたくさんご迷惑をおかけした。

だいぶ、よくはなってきたのたけれど。

人間疲れると、当たり前のことも出来なくなるんだなと思った。 




最近、仕事というもの、労働というものについて、よく考える。

お客様に喜んでいただきたい、期待に応えたい、ずっと思ってきた。


でも、その果てにあるものはなんなのだろう……と思う。

隷属、奴隷化……、なのだろうか……、と最近漠然と考えている。

お金をもらうのだから、一生懸命働くのは当たり前、そう思ってきた、きたのだけれど、


でも、どこまでお客様に要望に答えていけばいいの?

できるだけ早くやってほしいという仕事が何ヶ月も続いた。

期待に応えるなら、残業もした方が早く上がる。たかだか二時間から三時間の差だけれど。

休みを削れば、一日早くなる。


たまにならいい。それが、しょっちゅう続くとなると、私の時間はどこへ行くのだろう……と思った。

それでも応え続けなければならないのだろうか……


自分が鬱っぽくなっていくのがわかった。

過労死していく人や、鬱になっていく人の中には、仕事を一生懸命やって、自分の時間を全て捧げ相手の期待に応えようとした結果の人もいると思った。


お金を払うからと言って相手を、どんなふうにも扱っていいの?
お金を払っているからと、みんな損をしないように必死だ。

安い金額だからと寛容な人ばかりではない。ファミレスの店員に「料理の出すタイミングを考えなさい」なんて言っている人もいる。安いのだから、それなりの理由があるのに。

ただだったら、なんでもないことなのだろうけれど、お金を払うと怒りに変わる。


お金をいただくということは、裏を返せば、奴隷になるということに他ならないのかもしれないと思った。

奴隷に自由時間なんてものはない。あるとすれば、「主人に自由にしていいよ」と言われたときぐらいだと思う。

お金をもらうということは、喜びであると共に、苦しみの始まりでもあると思った。


私は、奴隷じゃない。だから時間を自由に使う。たとえお金で雇われている時間だとしても。

私は表面上、雇われいるけど、雇われてはいない。

お客様も雇用主も、同士、仲間であり友人である。私の王ではない。


― 私は友人として振舞う ―




なのですが、会社に属している限りは、完全に仕事をシャットダウンもできないので、以下のように行動していこうと思います。


やる気がないときは、やりたくないときは、そのままでいきます。

冬には、冬の過ごし方があるように、

やる気がないときは、やる気がないように過ごす。

ものすごく一生懸命やらない。

合言葉は「できなくてもいいや」


仕事がたまっていても、定時で帰る。

クォリティは、極めすぎない。ほどよく作る。

昔、作ったものをほんのちょっとリメイクして、使用する。

人の力を遠慮なく借りる。

定時間内にやれないときは交渉する。

できないときは断る。

また、プライベートでは気分が乗らないときは、行かない。(行けば、それなりによいことも待っているとは思うのだけれど)



反対にやる気があるときはやる。やりたいときはやる。

クォリティを極めるため、そのために時間を惜しまない。

(惜しみたくないけれど……その欲を押さえなければならないような気もしているのも事実。この発現はもしかしたら覆すかも)

0からものを作り出す。

積極的に参加する。etc……



なんか、動物的で、社会人として、どうかと、自分でも思うのだけれど、考えが変わらない限りこれで行きます。


ふと思ったとのですがに、やる気がないときに、やる気があるときと同じようにやるというのは、無理をしているという状態であるいえます。自分を含めた誰かが無理をしている場合、他の誰かにも無理がかかるということになる。

アレクサンダーテクニークの先生もそんなことを仰っていました。

これは、宇宙の真理であると思います。


自分が無理をすることは、宇宙の調和を乱す行為な気もします。

例え、会社や、この日本において、賞賛に値する行為だったとしても、宇宙から見ればNG極まりないといいますか……



とにかくこれでいきます。

そして、目指すはお金を介在させなくても、自由にしたいことができる状態にしたいと思う。

がんばります!!!!エイエイオー!!!!!


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☆メモ☆

今、古代からある、ミステリースクールの伝承では、時代は「奴隷制の解放」とのこと。

詳しくは下記のブログをご覧くださいませ。

ミステリースクールの先生のブログです。

http://toa213.269g.net/archives/200904.html


そのステリースクールのHPです。
http://rmms.jp/home.html

GW何した? ブログネタ:GW何した? 参加中

GWは、ベトナムに行きました。

ベトナムで、ベトナムの高校生の子と少し話をしました。

その子に日本の給料の額を聞かれ、私は「女の子の初任給で15万円ぐらいかな」と答えました。

その子はとてもビックリしていた。

ベトナムの女の子の初任給は、1万円ぐらい。

その差15倍。私も驚いた。



そして、価値というものについて考えた。





私の友人に手作りのアクセサリーを作ってお金を得ている子がいる。

彼女は言った。 「一生懸命作っているからあまり安い値段で売りたくない」 と。

そんな彼女のアクセサリーは高いもので一万円する。

私にとっては一万円はとても高い。買うのに勇気のいる値段である。

ベトナムの人にはもっと勇気のいる値段だと思う。


でも、年収1億稼ぐ人や、たくさんの別荘を持つようなお金持ちにとってはどうなのだろう……と思う。

私にとっての100円や10円の価値しかないのだろうか……とも思う。



私も、アクセサリーではないとはいえ、ものを作る人間。

自分の作り出したものが、値段が安いという理由だけで、買われていくのはとても悲しいことである。

願わくば、本当に気に入ってもらって、買っていってほしいと思う。

その願いを込めて、一万という私にとっての高い値段をつけているのに、

お金持ちの人から見たら安いものと映って、その理由で買われていくのはとても悲しい……



ちょっと話がそれましたが……


同じ、1万円でも、所得やその他要因によって、同じ価値にはならないんだなあと。

大金持ちにとっては、銅の価値であり、

日本人にとっては、銀の価値であり、

ベトナム人にとっては、金の価値である。


そう考えるとお金によって示された価値はなんなんだろう……と思う。

お金によって示された価値は、人間にとっての共通の価値ではなかったんだなと思った。


そんなものは幻にすぎなかったんだなと思った。


そう思うと、高い値段をつけて、それが売れてるからといって、自分が作り出したものに価値があると思うのはナンセンスだったんだなと思う。

また、”自分にとって高い値段”がつけられたからといって価値あるものと相手が感じているとは限らないなんだということでもあったんだと思う。(安いということに価値は感じているのだろうけど)



さて、これから私はどうしていこう……

自分でつける自分の仕事に対しての値段には純粋に自分が欲しい額を設定していけば、自分の作ったものに価値が認められていない状態で買われていっても割り切れるのだろうか……


なんか、ちょっと微妙かも。

そう考えると値段をつけることも、つくことも、喜びであると同時に、悲しみでもあると思った。

値段というものがある限り、どちらも避けて通れないのかなあ……


まあ、私の作ったものを好きになってくれて、私が不自由することのないお金を手に入れることが出来て、私のしたいことができれば、なんでもいいのかなと思います。

こんなことにこだわっていること自体がナンセンスなのかもしれない。