くどいようだが、


世間は常に、そして何処でも、


どうでもいいことばかりで大騒ぎをしている。


結論だけ先に言ってしまえば、


その人の視野が狭ければ狭いほど、


人はどうでもいいことで年中大騒ぎをしている。


逆に言えば、


視野が広ければ、つまり人間が出来れば出来るほど、


世の中というものはどうでもいいことしか存在しなくなってくる。


たとえば直近で言うと、


大学入試で不正が行われたとか?


よく知らないが、そんなことはどうでもいいことだ。


どこの大学に入ろうが中学も卒業していなかろうが大勢に影響はない。


まあ若い視野の狭い、生きるということをろくに知らない人たちは、


大学に合格するかどうかが重要なんだろう。


もちろん理解できる。


私だってその当時は浪人までして必死だったわけだから。


しかしいい大人が大騒ぎをしているらしいのは一体何だ?


みんなそんなに視野が狭いのか?


それとも大騒ぎをしているのはいわゆるマスコミ連中だけで、


実は皆内心は「どうでもいいじゃあないか、そんなこと」と冷ややかに見ているのか?


私にはよく分からない。


やれ政局がどうの?


そんなことどうでもいい。


面白くもなんともない。


平日の今日もやっている地方競馬レースののインターネット中継の方がよほど面白い。


まあそういうわけで、人それぞれ価値観や興味の違いがあるのは言うまでもないが、


それにしても「そんなことで大騒ぎするなよ、つまらない」と思っているのは私だけでもないだろう。


今日も昨日もあさっても、どうでもいいニュースばかりだ。


人間というものは、実に単純明快な「土台」の上で生きている。

     それは、メンツとか尊厳とかプライドとか、あるいはまた意地とか言われる

     ものである。

     人が生きていくには、最低限の尊厳が必要だ。

     それを台無しにしようとする者に対しては、猛然と反撃に出る。

     たとえば、人は歳をとても気にかける。

     もし歳下の者から、プライドを傷つけられると、人は容赦しない。

     そして、単に歳だけではなく、それまで自分より「下」だと思っていた人間から、

     「生意気」なことを突きつけられると、我慢できない。

     そういったことが、生きていく上で最小限、必要だからである。

     そしてまた人は、「真実」を突きつける人間も容赦しない。

     そんなことは耐えられないことだからである。

     何故なら、「真実」は、とてつもない恐怖だから。

     そのようにして、例えばイエスは殺された。

     私はもちろん「真実」など知らないが、それでもかなりそれに近いことを言明

     してきた。それ故、友人の一人もおらず、家族からもほとんど無視されている。

     くどいようだが、人はそういったことに耐えられないのである。

 

詳しい数字は不勉強で忘れたが、

日本の税(主に所得税)の累進性が、

この20年くらい(?)の間にどんどん緩和されてきた。

一方で今、逆進性の税の代表である消費税の引き上げばかりが論じられている。

これは一種の流行かもしれないと私は思う。

つまり、私の大嫌いな言葉だが「勝ち負け」をはっきりさせようという「流行」である。

いくら古いと言われても、

私は結果平等論者である。

社会主義の何が悪い?

その対極とも言える資本主義だってもはや崩壊したではないか。

それでも市場原理主義者はいまだに、

「競争だ競争だ」と叫び続けている。

所得の再分配という概念はなぜいけないのか?私にはその理由が分からない。

努力とか「実力」とか、そんなものは皆同じだ。

今こそ政治の役割の原点に帰って、

あらゆる税の累進税率を強化し所得の再分配政策を進めるべきだ。

われわれは一体、

政治家の生の声をどれだけ、くだらない邪推をはさまずに聴いているだろうか?

テレビや新聞、ラジオなども含めてくだらない「評論家」連中が多すぎる。

彼らの勝手な邪推を入れた「解説」を聴いていると、

あまりにも政治家の本当の思いを聴き誤まる。

それくらいマスコミはくだらない。

私は最近、ほとんどテレビや新聞などを見聞しないことにしている。

そこに登場する「解説」や「評論」を含んだ報道を聴いていると、

あまりにも勝手な邪推ばかりで、

政治家の本当の思いが伝わってこないことに気付いたからだ。

もちろん、

政治家の生の声を何の解釈もせずに正直に聴くことが、

本当に彼らの思いを聴いていることにはならないだろうが、

そこは個々人が自分で考え判断すべきだろう。

くだらない評論家連中の声や論調をはさむ必要はない。

そのうえで自分で「邪推」をするのはその人の勝手だが、

それこそ少し前の流行り言葉で言えば自己責任で考え判断すべきと私は思う。

くどいようだが、

何も評論家連中や専門家と言われる人たちの考えをはさむ必要はないのである。

村上春樹氏の小説作品「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」の中で、「図書館の女

    の子」が、叫ぶように言う。「あなたにはわからないの?ここは世界の終わりで、私たちはもう

    何処へも行けないのよ」(原文と違っていたらご容赦いただきたい)と。

    もちろん、それはフィクションだが、真理を示唆している。

    そう、私たちはもう何処へも行けないのだ。

    たとえ世界一周の旅をして、あらゆる体験をしたところで、所詮「ブッダ」の手の平の上を

    彷徨っていただけ・・・。

    自分はなにかになれるとか、夢を実現させるんだとか・・・・。

    人は成長するにつれ、そんなことを思うのには余りにも疲れてゆく。

    「お前は諦め主義だ」と大人を非難するのは、若いというよりまだ未熟な少年のすることだ。

    「すべては幻想にすぎない。あなたがたは眠りこけている。あなたがたの夢を覚ませて、

     正気に戻すのが私の仕事だ」というようなことを、「ブッダ」たちは言う。

     そういったメッセージをどう理解するかは、もちろん私たちにかかっている。