素直であるということと、


言いなりになるということはまったく違う。


次元の異なることだ。


素直とは、


あるがままを観察して、


いかなる思考による判断も排除することだ。


なぜなら、


クリシュナムルティも言うように、


「思考はわれわれの問題を解決でき」ないからである。


思考は限定的な極めて狭い世界にとどまり、


それに比して、


宇宙は広く果てしないからだ。


そして素直さは宇宙に属する。


自由とは選り好みをしないということだ。


好き嫌いを言わないということだ。


逆説的だが、よく考えるとそういうことになる。


つまり、選り好みあるいは好き嫌いを言って「選んでいる」ひとは


自身の欲望に束縛されているということだ。


ものごとに優劣をつけたり好き嫌いを言うのは実に安直なことだが、


真の自由とは相対的価値観からの自由であり、


選り好みをせずにに超然としているということだ。


つまりそれこそが、J.クリシュナムルティの言う「無選択の気づき」であろう。


「相対的価値観」とは、


これは良いあれは悪いとか、


こちらの方があちらより優れている、


あるいは、われわれが正義であちらが悪だというような、


比較に基づく視野の狭いものである。


自我にとって、思考にとって、


比較しないことは極めて難しい。


と言うより、


比較することが自我の本質的な性質である。


そして、


なんでも比較してより良いものに対する欲望が生まれるというわけだ。


「思考はわれわれの問題を解決することができるだろうか」と、


クリシュナムルティは洞察する。


そして比較することがやんだ時、


われわれは、はじめから自由であったことに気づくのかもしれない。



自由(freedom)とは何か?
それは「気づき」であろう。
クリシュナムルティによれば、
われわれが自由になるためには、まずはじめに自由でなければならない。
まさにこれは逆説的であり、
また、すでに自由を獲得した人間にしか言えない言葉であろう。
和尚は言う。
あなたは自由になる必要はない。ただ自由であるということに気づくだけでいい。

まさに彼らのこういった台詞が至言であろうと思う。

人のためになりたいわけでもなければ

自分の利益のためにやっているわけでもない。

私はただ、

やりたいことをやっているだけだ。