ほとんどの人は、そういう時間があると「何かおもしろいこと」
を探そうとするものです。何故なら、その方が楽だからです。
それは、自分をごまかすための安直な方法だからです。
そして実際、楽しくておもしろいことを見つけ、それに没頭し
夢中になり、「疑似幸福感」を味わい、再びそのことをしたい
欲望が芽生え、そのために努力します。本当の幸福を
発見することなど忘れて・・。
賢人はそういう一連の欺瞞(つまり自我の愚かさ)に気づき、
そして「私は誰か?」を追究することこそ、真の幸福に通じる
のではないか?と、感じ始めます。
「私は誰か?」。
暇で退屈でつまらない時間はそのためのチャンスだと思います。
クリシュナムルティは言っています。「思考は私たちの問題を
解決することができるだろうか?」
思考すなわち自我は本質的に愚かなメカニズムであり、その
外へ出ない限り、私たちは真の幸福を感じることはできないだろう、
というようなことをクリシュナムルティは言明します。
何故なら、彼はそのことを体験的に知っているからです。
何かを信じることは、逃避であり自己欺瞞です。
何も頼りにせず、「事の本質」を見抜いた人こそが、そういった
一連のことを、まさに知っているのであり、何かを信じることは
それとは全く関係のないことです。
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出典は忘れましたが、以下のような話を読んだことがある。
ある朝、若い修行僧が師と一緒に朝食の席についていた。
その若い修行僧は一晩中考え事をしていて、結局眠れなかった。
そこで、その朝食の席で、自身の疑問を師にぶつけた。
「人間は何のために生まれてきて、そしてどこからやって来て
何処へいくのでしょうか?死後の世界はあるのでしょうか?
真理とは何なのでしょうか?神は存在するのでしょうか?
私はいったい何のために修行しているのでしょうか?
宇宙とはなんなのでしょうか?
救いはあるのでしょうか?」
と、師はひとこと、「飯が冷えるぞ」。
♯
少し以前に、あるかなり有名ないわゆる「掲示板」に僕は、
「何が男女平等だ!」と題して、要するにそういう内容の文章を
載せた。
反響はある意味で予想通り(と言っても絶対数がたったの3通の
mailだが)。二人の比較的若い女性は、「そのとおり、よくぞ言ってくれ
た」
という内容。あとの1通は若い男性の、「好意的なmailは来ないと思いますよ」
ということだった。
乱暴な言い方をすれば、改めてマスコミというのは本当に出鱈目な
ものだと感じた。