画像データの巻き戻しボタンをキュルルルルゥ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

と延々戻して

 

 

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40年前の埼玉県上尾市の現在の実家を建て直す前の木造の家の1階部分の一部屋を

 

自分の部屋ということで与えられいた私の部屋。

 

天井は木目の模様がいろんな動物に見える、床は畳、壁はザラザラした左官が塗った

 

昔の壁、その壁にピンクフロイドの皆既日食のポスターや湖に男が逆さ吊りに刺さっ

 

てる犬神家の一族みたいなピンクフロイドのポスターやピラミッドのポスターを貼っ

 

ていて怪しさ満載のムーのようだった。中学生の時は白い肩掛けカバンにマジックで

 

狂気とデカデカとレタリングして普通に登下校していた。親はそういうことには何も

 

言わなかった。その頃の私は弁当に肉が入ってないと文句を言っていたので母親との

 

会話は肉!と金!だけだったのでさぞかし殺したかったと思う。

 

 

雨戸とか木とトタンでできたヤツで開けたり閉めたりするだけでオラッと気合い入れ

 

なきゃ開かないヤツでよく指から血が出ていた。窓は、昭和っぽい葉っぱの柄が入っ

 

たすりガラスで2メーターくらいの高さのが2面あって、左の窓の外には卵を家族で

 

食べる用に飼っていたニワトリ小屋があって毎日茶色の卵を採っていた。

 

(粘着物がついていたり、生々しいので一時期、卵が食えなくなった。オエッ)

 

卵を採ったり、エサとして菜葉を包丁で切って与えたり、とうもろこしの種や貝殻を

 

砕いたものを与えるのもほとんど母親がやっていた。

 

右側のガラス窓の外には思いっきり畑で、耕運機で耕してほっかほかの土の時もあれ

 

ば、枝豆や麦畑になっている時もあった。そばに田んぼもあったので夜はカエルの声

 

が鳴り響いていた。 冬は野焼きといって採った後の稲を畑で燃やす匂いが漂ってい

 

た。(今は焚き火すら、東京ではあまり見ない・・・)

 

 

そのころの私といえばキッスやクイーンから入ってハード・ロックやビートルズを

 

経てプログレからのパンクも落ち着き、JAZZに目覚めたあたりで世の中に

 

フュージョンやAORという都会の音楽が流行り出しました。

 

日本では山下達郎の「FOR YOU」とか大瀧詠一の『ロング・バケーション」。

 

松田聖子は「SWEET MEMORIES」の頃、マセガキな私は、学習机じゃない木で出来

 

た机をつや消しの黒ペンキで塗って、電気スタンドも黒ペンキで塗って、JAZZって

 

赤でレタリングしたのを切り抜いて壁にはったりしてコルトレーンとか聞いていまし

 

た。で、ある日の昼間に薄暗い間接照明にしてコーヒーとか飲みながらボビーコール

 

ドウェルの「HEART OF MINE」あたりを聴きながらその都会の世界に一人陶酔しき

 

って悦に入っていたその絶頂の時、

 

 

ズドバババーン!!!

 

 

みたいな音とともに母親が入ってきた。

 

(その頃の自分の部屋だけ柱が歪んでるのか毎回ブッシュっと力いっぱいドアノブを

 

押してからすぐ右におっつけるようにしないと開かない。)

 

 

 

 

「なーにあんた感じ出してんの!!?」

 

それだけ言ってハハハって笑いながら母は出て行った。

 

なんなんだよ!

 

てか、お前もーやだ。

 

都会の夜のジャジーな雰囲気が台無じゃないか!!!

 

 

撤収!みたいな気持ちになり、

 

 

ごめんね、ごめんねーで畑に味噌持ってきゅうり食いに集合!!、

 

 

あ〜そうしましょ、そうしましょ、そうしましょったら、そうしましょ!

 

 

ってか!!?

 

 

みたいな田吾作な気分になって完全にイヤになった。(涙)

 

 

 

 

 

 

 

それから少し経った夏の日

 

上半身裸で短パンいっちょで両足を台の上にのせて冷房なんかないから窓全開で、

 

そっくりかえってボブ・マリーのレゲエをチャッカ、チャッカ、チャッカとかやたら

 

CHILL状態に浸ってレイドバックしてる後ろから

 

 

 

「何これサンマが歌ってんの?」

 

 

あっ??音がデカくて何言ってんだかわかんなくて何度も聞くと

 

明石家さんまが歌ってるみたいだと言いたいらしい。

 

しばらくそういう耳で聞いていると確かにさんまに聞こえてきた。

 

オー・プリーズ・ドンチュ・ロック・マイ・ボート〜〜

 

 

ちょっと笑ってしまったが、違う!そういうことじゃない・・・

 

またしても田吾作な気分に引きずり下ろされたぜ!

 

ちょっとしてやったりの横顔で母はハハハとどこかへ行ってしまった。

 

 

また母は油絵が大好きで家の外壁をゴッホのような真っ黄色にしていた。

 

自宅で絵の教室をやり、日常的にモチーフに花を使うため庭はモネばりに

 

花だらけでいつも花のことしか考えてないくらいの花好きだった。

 

 

 

そんな母は、家族で那須に旅行に行ったとき、ショッピングモールの千円Tシャツコ

 

ーナーに吸い寄せられて帰って来ないなぁ〜と思ったら、しばらくして3枚手に持っ

 

て歩いてきた。「これ安いの〜〜」と満面の笑みで見せにきた。

 

「お〜いいじゃない」とてきとうに言ったが、

 

3枚とも高円寺とかでたまに見るヒッピーが着るようなサイケデリックなフラワーム

 

ーブメント全開のピースマークとか入っちゃってるヤツの色違いで、たぶん意味合い

 

は本人まったくわかってないのはまず間違いない。色にはうるさいのでおそらく色的

 

なツボに入ったのだろう彼女なりの。

 

(まあ那須だから人あんまりいないから別にいいのか・・・)

 

 

オレもバンドとかやってたけどそれは着れないわ。

 

 

 

そこから早送り、キュルルル〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

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私の弟に子供ができて、母には初孫、私には甥っ子の長男が育ち小学五年生になりま

 

した。男の私からしても可愛いので、母からしたらさぞかし可愛いのでしょう。

 

その子がある日学校の夏休みの宿題かなんかでオニヤンマ(とんぼ)の絵を描いたの

 

をおばあちゃん(母)に見せたのです。するとあまりの大胆なドアップのトンボの目

 

玉をあどけないクレヨンのタッチで描いている構図におばあちゃんの中の本気モード

 

の回路に火が点いちゃったのか、孫がすごくいい絵を描いたことと、ほんのちょっと

 

それに手を入れちゃった事を母から直接聞きました。

 

 

私の母は過去、日展に何度も入選してて家やコミュニティーセンターで絵を教えてる

 

ので絵の世界では大リーグ級じゃないですか。

 

プロボクサーがストリートでファイティングするようなもんで凶器じゃないスカ!?

 

そのタッチひとつひとつが!!!

 

 

なので私は「ダメだよ、それは絶対にダメだよ!手出しちゃ、お母さん!マジで!」

 

と強めの語気で言った。

 

母は子供が怒られてるような顔をして「大丈夫だよ。」「はい。」と言っていた。

 

その後もかなりのタッチを入れていたことを甥っ子から数年後に聞いた。

 

私も少し絵を描くのでわからなくもない、でも子供のはダメだ!!

 

 

すると学校でその絵が賞をとった。

 

 

それが学区内に出されまた賞をとった。

 

 

次に市のそういう大会みたいのに出され賞をとった。

 

 

そのうち県の大会みたいなのでもまた賞をとった。

 

 

 

 

ヤバいよばあちゃん・・・もう誰にも言えないじゃない。

 

 

 

ついにはMOMA美術館で飾られるまで行ってしまった。。。。。。あ〜〜〜あ

 

 

 

もういないから言うけど・・・

 

 

ダメだよおばあちゃん(お母さん)

 

 

彼(甥っ子)の絵への道を絶ったのは確実にあなただよ!!!

 

 

(現在甥っ子は都内のIT関係の会社に就職が決まった。)

 

 

 

 

 

でいつものようにカラオケに行き今年の夏から歌ってるナット・キング・コールの

 

クリスマス・ソングを歌おうとしたその刹那気付いてゾッとした。

 

 

 

するといつも近所の道端に椅子出して座って人つかまえちゃしゃべってコミュニケー

 

ションをすることでボケ防止している名物おばちゃん(海苔屋なので我が家ではノリ

 

子と呼んでいる。笑)に、ここんとこずっと裏道から逃げていたけど久々に話そうみ

 

たいな気持ちがなぜか湧いてきて、母が亡くなったことを告げると

 

「お母さん何歳?」「80歳!?私は75歳。私もそろそろね。」耳が悪いので

 

こっちの話はあまり聞けないらしく雰囲気で喋ってる。

 

「でもお母さん幸せだった〜こんな立派な息子さんいて、奥さんも女優さんみたいに

 

きれいで。」「吉永小百合みたい。」

 

「じゃあもう本当のクリスマスだ。」「本当に幸せだった〜ビルも建てたし・・・」

 

「私なんか不良旦那に捕まっちゃったからいつも一人よ。」

 

「千葉ニュータウンに住んでんだけどね・・・・・・・・・・銀座の恋の物語ってあ

 

るでしょ」

 

「ペラペラペラ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜。」

 

 

こっからが長いんだ〜と思ってたら「あなたこんな時に元気すぎ。」

 

と言って手でもう行きなさいと、逃がしてくれた。 ホッ

 

 

 

この時期寒くて人がよく亡くなるらしく、19日に母が亡くなったのだが24、25日が

 

クリスマスなのでその日しか空いてないらしく通夜を24日、告別式を25日にとなっ

 

たのだ。

 

 

だが、しかし

 

ノリ子は適当に言ってるんだろうけどなんで知ってるんだ!?

 

 

ナットキングコールのクリスマス・ソングにしても心はこうなることを知っていたと

 

しか思えず、さらにゾワッとなった。

 

 

 

21日が納棺の日といっておくりびとみたいな儀式をする日だった。

 

母のアトリエが遺体の置き場所になったのだが、私が好きだった絵をもらっておこう

 

とキャンバスを物色していると、描きかけの絵がイーゼルに掛かってて思わずウッと

 

なってしまった。

 

化粧をしたり、たびを履かせたり、お気に入りの服を棺に入れたりしながら、最後に

 

母の好きだったコーヒーで唇を湿らせるのだが、私と犬猿の仲の父親が逆上して

 

「お前は今までの不幸をお母さんに謝れ!!!!」と怒鳴り、ナニ橋田壽賀子のドラ

 

マみたいな事いってるんだこのジジイが・・・と思いながら即興で何か言おうとした

 

ら勝手に言葉が出てきた。

 

 

「いつもたすけてくれてありがとう。」

 

「お母さんが描けなかった絵をオレが描くから!」

 

最後のから〜と同時に不覚にも(父親の前だったので)嗚咽と涙と鼻水がとめどなく

 

流れた。

 

次に次男「楽になったね〜からドヒャーってなって、

 

三男も「お世話になりましたドヒャーみたいなリレーが7人くらい続いた。

 

あまり近くない人もいたので

 

後になるほどそのプレッシャーはハンパなかったと思う。

 

 

その後一息ついて葬儀の打ち合わせを兄弟とその嫁でキャッキャ言いながら決めたの

 

だが、私の父親が「花の好きだった人だから、できれば生花で送ってあげたい。」

 

みたいなことを言った。(私は心で大丈夫か?花って高いんだぞ・・・・)

 

男兄弟は「棺なんか燃やしちゃうんだから無地でいいんだよ無地で!」

 

嫁は父の一言で調子に乗り「お墓に入れるポットはかわいいお花のやつがいい!」

 

とか祭壇はふつう菊とかなのに「お母さんは白黒とかじゃなくてカラフルな方がかわ

 

いいのでこれ!」フラワームーブメントの母に捧げるカラフル代にかさんでしまった

 

ので、食事とか、香典返しとか、を最低ランクに私が納めた。それでも戒名とかお坊

 

さんに払う金額の総額が300万で、父親は真っ赤な顔して怒っていた。

 

(てめーが生花とかほざくからそうなったんだぞ、このジジイが!)

 

 

60万ぐらい予算オーバーになった分を3兄弟で払うということになり、

 

香典20万円をフラワーサイケデリックマザーへ割ときっぱり用立てた。

 

(酒をやめたことでなぜか20万円があったことにもゾッとした。)

 

 

葬儀が自分の中学校の裏でそこまでの駅からの行き方が久しぶりすぎてわからなく

 

て、つい指のくせで I phoneでハヒフヘホの母

 

って押しそうになった時・・・

 

すべてを悟った。