シアタートラムで上演中の、横山拓也作・演出・iaku『モモンバのくくり罠』を観てきました。

 

いつもと変わらぬ軽快な関西弁のやりとりは耳に心地よく、笑いを誘われるところもたくさんあって、

 

そんな中、親子、子育て、教育、自立、また、とある社会問題などのテーマが浮かび上がってきて、考えたり感じたりしながら観ていました。

といっても堅苦しい物ではなく、俳優陣の個性的な演技と脚本の面白さや深さを堪能した105分間でした。

 

以下、ネタバレありの感想ですので、未見の方は自己判断のもと、お読みください!

 

 

 

 

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2023年11月26日(日)13時

シアタートラム

作・演出 横山拓也

出演 枝元萌 祷キララ 緒方晋 橋爪未萠里 八頭司悠友 永滝元太郎

 

 

 

山中で罠猟や農作を行って自給自足の生活を送る母親(枝元萌)。

その生活を成り立たせるために町で企業に勤め、経済的支援をしている父親(永滝元太郎)。

もともとは一緒に山中で暮らしていたようですが、自給自足の生活は母親の理想と信念に基づくもので、父親とはやがて別居生活に。

 

二人の間には娘(祷キララ)がいて、幼い頃から母親と山の中で暮らしていたけれど、娘は大きくなるにつれて段々と周囲との差に気が付き、

百原(ももはら)という名字をもじって、“動物殺しのモモンバ”と揶揄される母親との原始的な生活に疑問と嫌悪感を持つようになり、高校卒業と同時に山を下りて父親と同居するようになります。

 

山中で一人で暮らす母親には、何かと協力してくれる地元のおじさん(緒方晋)がいて、ある日、その彼が、動物園の若い男性職員(八頭司悠友)を連れてきて、狩猟体験を希望しているので体験させてやってほしい、と頼みます。

 

動物園職員が獲物の解体作業を手伝わされる時の大騒ぎも可笑しかったんですが、命を喰らうことを考えさせられたりして、iakuの作品『エダニク』を思い出したりしました。

 

そこに、父親と、娘がある報告をするためにやってきます。

母親と地元のおじさんは口々に娘が痩せた、と驚き心配しますが、

さらには父親がサイドビジネスで始めたというバーの店長の女性(橋爪未萠里)が後からやってきて、すわ父親の浮気相手?と不穏な空気が流れる中、喧々諤々の議論が交わされることに。
 

といっても、深刻になりすぎない、ノリツッコミの応酬で、動物園職員のツッコミが時に鋭い指摘だったりして。

 

なかなか口を開かない父親に代わって、娘が、

 

父親は胃がんの手術をしたこと、会社は辞めたこと、バーの店長にほのかな恋心があり、店長はその気はないのにそれを利用している、

 

母親も自分の夢のために父親を利用しているし、

過去に母親に怪我をさせたことから何かと面倒をみている地元のおじさんの存在が、父親に疎外感を与え、結果的にバーの経営にのめり込むことになっていること、

 

などなどを、ビシビシと指摘していき、それは見ていてちょっと小気味よかったんですが、同時にその容赦ない残酷さは幼さとも言えて…

 

娘は、19歳の今、バイト先でも人と普通のコミュニケーションがとれない、普通になりたいのになれない、それは普通の生活を送ってこなかったからだ、と言い出します。

大人達は、その言葉に対して励ましや楽観的な言葉をかけますが、私は宗教二世の人たちの苦しみを思い起こしました。

 

娘が5歳の時から獲物の解体を手伝わされていたことに対して、動物園職員が、

「それ虐待!」という台詞がありましたが、

 

母親と二人だけでの山の中の暮らしで、自給自足の生活以外を与えてこなかったことは、親が宗教の教義を強要することと共通する点があるとも言えて、ある意味児童虐待とも言えると思いますし、作者の横山さんは、この点にかなり辛辣に切り込んでいるように思えました。

 

また、動物園職員は、

母親は自分で選んでこの生活を送っているけれど、娘は選んだわけではない。

子どもは価値観を押し付けられているのではなく、植え付けられている。親の考え方に支配されてきた子どもが、大人になったからといって、自分の力で修正したり適応するのは難しい、と言うんですが、ここはすごく刺さりました。

 

価値観の「押し付け」なら、はねのけることができても、「植え付け」から解放されることは簡単にはいかないだろうなあ、と。

 

ただ、子育ては、多かれ少なかれ親の価値観が反映するものだし、親の考え方を提示することも大切だろうし、もっと根源的な、愛情だったり子どもの幸せを願い、子どものためと信じる気持ちは、ある意味宗教と近いものかもしれないわけで…

 

終盤、山を下りた娘が瘦せてしまった原因がわかるんですが、

それは、捕獲した鹿や猪の肉や新鮮な野菜を食べて育った娘は、巷にあふれている食べ物が何を食べても美味しくない、食べられない、と…

 

紅葉(鹿肉の隠語)、牡丹(猪肉の隠語)が食べたくてたまらない、でもそんな生活から抜け出したいと思っているのに、そこに帰ろうとしている自分に対して苛立ってしまう、そんなもやもやがよく表れていた演技と脚本で、なるほど、フライヤーのコピーはそういう意味なのね、とわかりました。

 

自立と依存の狭間に揺れる19歳、そんな年頃だと言うことは簡単だけれど、特殊な環境下で育った者のもつ苦しさ、食べ物の嗜好まで支配されていることの深刻さも感じました。

 

けれど、母親は、娘が山を下りるという選択肢は認めているし、究極は自分自身で頑張らなければならないのだ、と突き放し、でも、「あかんかったらいつでも帰っておいで」と言う。

 

そんな台詞に、自立と依存の密接な関係ー自立には依存の支えが必要なこと、そのバランスの難しさ、なども頭によぎり、

 

猪肉が食べたい、と言う娘に、よっしゃ!と張り切る大人達は微笑ましたかったし、

娘が調理師免許をとって父親の経営する店でジビエ料理を出せばいい、と万事解決したムードになっているのも何だかほっこりとしましたが、

この娘の抱えている生きづらさはそう簡単には解決しないだろうな、と思いつつ、

最後は何だか泣けてしまいました。

 

親として子どもを育ててきた自分、子どもだった自分…

横山さんの書く台詞の中に、私の心が感応するポイントがあるんですよね。

よしよし、またそこね、わかる、わかるよ、と自分の頭をひそかに撫でている自分もいたのでした。