東京芸術劇場プレイハウスで上演中の、野田秀樹作・演出 NODA・MAP『兎、波を走る』を観てきました。

今回はチケットが取れなかったんですが、リセールチケットとのご縁があり、観に行くことができました!

 

「兎、波を走る」というのは諺だそうですが、題名からしても想像がつかず、野田さんも、前情報なしに観てほしいと言っていたので、まっさらな状態で観劇しました。

 

物語の迷宮に誘い込む脚本に身を任せながら、メインキャストやアンサンブルの演技をはじめ、衣装、舞台美術、映像、照明などの美しく独創的なステージングを堪能し、総合芸術としての演劇の果実を存分に味わいました。

やがて、ある事柄にたどり着いた時には、いろいろな想いが沸き起こって…

 

 

以下、ネタバレありの感想ですので、未見の方は、自己判断のもと、お読みください!

 

 

 

 

 

 

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2023年7月15日(土)19時

東京芸術劇場プレイハウス

作・演出 野田秀樹

出演 高橋一生 松たか子 多部未華子 秋山菜津子 大倉孝二 大鶴佐助 山崎一 野田秀樹 他

 

 

 

 

 

 

競売にかけられている潰れかけの遊園地で、幼い頃に母と観たアリスの芝居を観たいと、元大女優(秋山菜津子)が脚本家を雇ってその芝居を再現しようとします。

 

一人は、不条理作家を名乗るチェーホフの孫(大倉孝二)

もう一人は、社会派作家を名乗るブレヒトの孫(野田秀樹)

(これって野田さん自身の構成要素の一部でもあるような)

 

一方、この遊園地では、迷子になった娘を探し続けている母親(松たか子)がいます。

 

逃げる兎(高橋一生)

妄想の国に迷い込んでしまったアリス(多部未華子)

 

『不思議の国のアリス』をモチーフにした劇中劇が展開していくのかと思いきや、いつの間にか元女優や作家たちが不動産屋(大鶴佐助)が案内する仮想空間に取り込まれていたり、

作家たちが書いていると思っていた脚本は、いつの間にかAIが書いているものだったり、と

現実と非現実との境界があいまいになる中で、

 

逃げる兎は元ピーターパンで、ネバーランドの子どもたちとともに指導者(山﨑一)から何かの訓練を受けていた…?

 

「招待所」「38」「工作員」というワードに暗い予感と確信を覚え、そして娘を探し続けている母親、と徐々にピースが埋まってくると、

 

これは逃げる兎を追いかけるアリスの話ではなく、兎に連れ去られたアリスを追いかける母親の話、そして自ら「安明進(アン・ミョンジン)」と名乗った兎の、亡命の話であるとわかりました。

 

こうして書いていると唐突な感じがしますが、劇中ではベールに包んだり、うまくカモフラージュしたり、観客を惑わせながら真相に導いていく手法は相変わらず秀逸で、

 

拉致工作員として訓練された兎が、少女のアリスを袋に入れ、船に乗せて漕いでいくシーンでは、「北朝鮮による拉致」を扱う際どさと覚悟に驚きつつも、フライヤーにある「なんともいたたまれない不条理」という言葉がまさに胸に広がりました。

 

ある日突然、知らない国に連れ去られていくなんて、突然、娘が帰ってこなくなるなんて、これほど不条理なことがあるだろうか…

 

アリスが、「お母さん、お母さん」と母を呼ぶ声、その声が遠くから胸の中に聞こえているのに娘に会うことができない母の姿が切なかった。

 

NODA・MAPの作品は、私には時々お説教くさく感じてしまうことがあるんですが、

『フェイクスピア』や『逆鱗』でも「声」が印象に残っているように、

野田さんは、過去の出来事として埋もれてしまう「声」を聞こうとすること、

確かにそこにあったはずの「声」に耳を傾ける態度を私達に示し、作家として聞いたその「声」を演劇として形にしている気がします。

 

拉致問題も、長くは現実とは捉えられておらず、それこそ妄想のように扱われていたことを思い出しますが、ラストシーンで、母の腕の中に、未だ娘はいないことが、拉致問題の現実は今も続いているのだということを、あらためて思わされました。

そして劇を観て「痛み」を感じること、それだけでいいいの?

「忘れないようにしよう」と言うこと、それだけでいいの?と自分に問いかけたりも。

 

また、仮想空間から帰ってこなかった元女優や作家たちは、その現実に向き合わない人々(為政者も含めて)の態度ともとれるし、これからAIや仮想空間などがより浸透していく中で、人は仮想の中に自らを投じていってしまうのだろうか、もはや私には感覚も理解も追いつかない世界になっていくと思うけど、いったいどんな世界になっていくのだろうか、と思ったりもしました。

 

俳優さん達は、演技も申し分なく、身体能力にもあらためて脱帽。

高橋一生さんは、『フェイクスピア』に比べると少し存在感が薄かった気がしますが、“じっと見ると見えない兎”ゆえかも?むしろそういう存在感を体現していたのかもしれませんね。