アラカンの父親が肋膜炎で入院していて、
何ヶ月か不在の時期があったという話は、
6月16日に、「父親不在の家だった」
というタイトルで書いた。
この時期はアラカンが小学校1、2年生の時だったと思う。
その後何事もなくアラカン一家は平和な暮らしが
続いたと持っていたが、そうではなかったことを
思い出した。
それは、アラカンが3、4年生の頃だったと思う。
それも正月元旦の朝だった。
「お母さんが大変なことになった。
お母さんが交通事故に遭った。」と、1月1日の朝
起きるなりに言われた。
その日だったか、2、3日後だった頃に、
母に会いに、母の入院している病院に行った。
母の姿を見るなり、もうびっくらドンだった。
母は、顔も擦り傷があり、寝たきりで、
母の変わり果てた姿を見るなり、
アラカンは自然と涙が、ボロボロと出てきて、
大声をあげて泣いた。
母は、12月31日の夜紅白歌合戦を見た後に、
近所の神社へ初詣に出掛けたときに、広い車通りを
横切る時に車に跳ねられたらしいのだ。
骨盤骨折の大怪我だった。
何ヶ月もギブスをつけたままだったこともあり、
ギブスが取れた後も、母は歩行もままならない状態だった。
母は、思い切って母の姉を頼って南紀勝浦に何ヶ月も歩行の
リハビリに行っていた。
母は少なくとも3ヶ月入院、3ヶ月はリハビリに
行っていたんじゃないかと思う。
母親不在のアラカン家、父親も大変だったと思うが、
一番上のアラカンの姉(アラカンよりも6才上)の負担も
大変なものだったと思う。
一難去ってまた一難。
そんな言葉がぴったりくるようなアラカンの幼少期だった。
母は、その事故のせいで、死ぬまで左足膝が思うように曲がらず、
歩くのに不自由していた。
また、天候が悪くなったり、冬場の寒い時などは
いつも足をさすっていた。