アラカンの4年間の学生時代は、
始めの2年間は、学校になるべく行った方がいいということで、
結構、大学に近いところの下宿を借りていた。
(自転車で通っていた)
もちろん、共同トイレ、風呂なし、ですぞ。
大家さんの2階の1室(4畳の部屋、2年目は
別の4畳半の部屋に移動した)に借りていた。
家賃は、いくらだったろうか?
5千円前後だったろうか?
1、2年生と真面目に学校に行ってせいか、
それとも、アラカンの要領がよかったせいか、
単位を落とすこともなく、ほとんどの単位を取っていたもんで、
3年生以降は、そう大学に行かなくてもいいんじゃねえ?
なんて勝手に解釈して、大学より遠方でもいいんじゃねえ?
と思い、大学より遠方もOK、とにかく安い家賃の家を探していた。
そんな時に、大学の生協での掲示板に、
家賃「無し」、その代わり土日にお店を手伝って欲しいとのこと。
(ただし、水道光熱費、電話代は負担。その当時に電話も
ついていたのには驚いた。)
どうも、家主さんが、アラカンの大学の卒業生らしく、
そんな縁もあって、同じ大学に募集掲示していたらしい。
間取りは、プレハブ造りの一軒家で、4畳半、6畳、
ダイニング6畳くらいに、風呂、トイレとなっていた。
(トイレは水洗ではなかった。でも、その当時は気にならなかった。)
そんな一軒家に、アラカンと同じような大学生と2人でシェアして
住むことになった。
その同居人である相手は、アラカンの全く知らない学生で、
アラカンより1つ年上だが、学年は1つ下だった。
(彼は、2浪していた。)
その餅屋さんは、お餅だけでなく、コーヒー、抹茶などの喫茶、
またうどん、そば、うな丼、天丼などの食事もやっていた。
それらの食事類も、アラカンにとっては、大変おいしく感じていた。
さらに、貧乏学生であるアラカンたちを思ってくれていて?、
朝9時に出勤すると、簡単な朝ごはんも食べさせてくれた。
(もちろん、昼ごはんも食べさせてくれていた。)
貧乏学生であるアラカンにとっては、大変助かったし、
ありがたかった。
ここでのアルバイトは、基本はウエイターだ。
それプラス、オレンジジュースを作ったり、コーヒーをポットから
カップに注いで出すこともあった。
時給はいくらだったろうか?
記憶は定かではないが、当初は350円くらいだったように思う。
家賃はなしだし、バイトの時は朝昼の食事も提供してもらえたりで、
ほんと助かった。
そのかわりじゃないけど、
ここのお店は、(正月1日は休みだけど)正月2日以降は
普通に営業していて、その時期は頑張ってバイトに来てね、
と言われていた。
(正月1日は、大将の家に呼んでもらって、京都独特の
(白味噌)雑煮を振る舞ってくれた。)
そんなこともありアラカンは、正月も実家に帰らず、
大学の3年生4年生の2年間は、ここのバイトに精を出していた。
ここでの2年間の生活は、アラカンのその後の人生に多少なりとも
大きな影響を
与えていたように思う。
アラカンが卒業してのその後は、
お餅屋の大将とは年賀状のやり取りは、普通にあるものの、
行き来はめっきりなくなった。
何年か経って、そのお店は食事の提供をやめてしまい、
お餅の製造販売だけになっていた。
その後、アラカンがそこのお餅屋さんに行ったのは、
アラカンが、結婚するときと、二男が遠方にいて、
そこへ行く途中で立ち寄った2回くらいしかない。
大将、いやお兄さん、いつまでもお元気でいてくださいね。
(ここの大将は、自分のことを「お兄さん」と呼びなさいね、と
アラカンたちに強制していました。(笑))