先週のお彼岸で、自分の菩提寺(お寺さん)に行ってきた。
お寺さんには、春と秋の年2回のお彼岸の
施餓鬼(せがき)法要には行くようにしている。
(お盆の法要もあるが、こちらはパスしている)


自分のその後も当然、このお寺さんにお世話になるだろうと
ずっと前から考えていたが、この段になってひょっとしたら、
自分の骨は、いっそ散骨してしまい、子孫に迷惑をかけないほうが
いいのではないかとふと思ってきたのである。

戒名にも相当お金がかかるし、1周忌3回忌7回忌やらの
法要とて、お坊さんを呼べばまたお金がかかるときたもんだ。
(こういう法要は、あらかんはちょい胡散臭く思っている。
まさに、お坊さん側のふところ事情論理で成り立っているのでは?と
勘ぐっているのだ。)

そう考えてくると、
(自分の亡骸が)病院から帰ってきたら、実家の仏間に一晩寝かせて頂き、
その翌日あたりには、火葬場に直行してもいいのではないかと
思ってきたのだ。

もう何もかも「ないないづくし」で進行するのだ。
こんなん、いかがだろうか?

自分の事、自分が生きてきた証は、すべてそれを思う人の心に
宿り続けるのだ。

「本当に出会った者に別れはこない」
谷川俊太郎さんの詩の一節が心に染み入る。