私は、子どもの頃から母親を見ていて、ずっと不思議に思っていたことがある。
母は、かなり極端な潔癖傾向があった。
例えば、学校へ行く前に洋服を着替えるとき、自分の洋服が入っているタンスを開けて服を選びたくても、私は勝手にタンスを触ることを許されなかった。
理由は、
「指紋がつくから」
だった。
冷蔵庫も同じだった。
喉が渇いて飲み物を取りたくても、勝手に冷蔵庫を開けてはいけない。
「指紋がついて汚れるから。飲みたいなら言いなさい。私が開けるから」
と言われる。
子どもの私は、
「……お前の指紋はええんかい」
と思っていた。
家具やテーブル、座布団など、家の中にあるものを勝手に触ることも嫌がられた。
触れば「手垢がついた」と怒られる。
それが、ただの注意で終わるわけではない。
怒鳴る。
ヒステリーを起こす。
言葉で攻撃する。
そして体罰になる。
家は本来、子どもにとって安心して過ごせる場所のはずなのに、私にとっては、
「何かに触ったら怒られるかもしれない場所」
だった。
自由にならない空間だった。
そして今振り返ると、母が私に植え付けていたものは、単なる「潔癖」だけではなかったように思う。
「私が触ると汚れる」
という感覚だった。
ところが、その母が「動物大好き」と言った
私はこれまでにドーベルマン6頭と暮らしてきた。
母が滋賀県に来た頃、我が家にはまだ3頭のドーベルマンがいた。
その3頭と生活している私に、母は平然と言った。
「私、動物大好きなの」
「ワンちゃん1匹くれない?」
「私だったら動物の世話、完璧にできるわ」
「動物と暮らすの得意なの」
私は心の中で、
「どの口が言うねん」
と思った。
だって、動物と暮らすということは、綺麗なことばかりではない。
毛も落ちる。
泥もつく。
よだれもつく。
排泄物の処理もある。
病気になれば介護も必要になる。
何より、動物は「触らないで」と言って家具のように管理できるものではない。
まして私は、実際に6頭のドーベルマンと暮らしてきた。
「動物が好き」という気持ちと、
「動物と暮らして、その一生に責任を持つ」
ことは別物だ。
だから私は、母の言葉そのものより、
過去の現実と、今語っている自分像が一致していないこと
に強い違和感を持った。
母は、そういう人だった
犬のことだけではなかった。
何か新しい現実が目の前に現れると、母はよく、
「私、それ得意なのよ」
「私はこういうことをやってきた」
「私にはこんな実績がある」
と言った。
でも、その実績が実際には存在しないこともあった。
今思えば、母は「できない」「知らない」「経験がない」という自分を、そのまま認めることが苦手だったのかもしれない。
だから、
「知らない私」
になるくらいなら、
「実は私、知ってるのよ」
という自分を作る。
「できない私」
になるくらいなら、
「私、得意なの」
と言う。
結果として、現実よりも自己イメージを優先してしまう。
私はそういう姿を、かなり長い間見てきた。
だからなのかもしれない。
私は人間の言葉を、そのまま信用しなくなった。
「私はこういう人間です」
と言われても、
「そう言っていること」ではなく、「実際に何をしているか」を見る。
言葉と行動が一致しているかを見る。
だから私は、人に対して執着しなくなったのかもしれない
もちろん、それだけが理由ではない。
でも、今こうして考えてみると、私はかなり早い時期から、
「人間は、言っていることとやっていることが一致しないことがある」
という現実を大量に見てきたのだと思う。
だから、人に対して、
「この人にはこうしてほしい」
「この人にはこう思ってほしい」
「この人には私から離れないでほしい」
という執着が、比較的少ない。
相手が変われば、
「ああ、そういう人なのね」
で終わる。
そして、自分の側の距離を調整する。
相手を変えようとするより、
自分がどう付き合うかを決める。
これは、子どもの頃から見てきたものの影響もあるのかもしれない。
自分の子どもには、同じことをしたくなかった
母親になった私は、子どもに対して、
「こうしなさい」
「ああしなさい」
「こういう人生を歩みなさい」
ということを、あまり言わなかった。
いや、言いたくなかった。
もちろん親だから、心配することもある。
「こうしたほうがいいんじゃないか」
と思うことだってある。
でも私は、そこで一度立ち止まる。
「私はそれを本当に経験したのか?」
と。
自分ができないことを、子どもに要求する。
自分が生きていない人生を、子どもに「こう生きるべき」と教える。
自分の望みを、
「あなたのためだから」
という形にして子どもへ押しつける。
それだけはしたくなかった。
なぜなら私は、そういうことをする親を知っているからだ。
人生は、一回しか生きられない
私には、ずっと思っていることがある。
もし私が、
何千通りもの人生を実際に生きてきたのなら。
あるいは、
何億通りもの人生を経験しているのなら。
「この方法はいいよ」
「これはやめたほうがいい」
「この人生を選んだほうが幸せになれる」
と、子どもにアドバイスできるかもしれない。
でも、私は一人の人間だ。
自分の人生しか生きていない。
しかも、まだ生きている途中だ。
そんな私が、
「このやり方が正解だよ」
と、どこまで偉そうに言えるのだろう。
自分が経験したことのない人生を、
想像だけで判断する。
世間ではこちらが良いと言われているから。
みんながそう言っているから。
こちらのほうが安定していそうだから。
親としては、そういう情報を子どもに伝えることはできる。
でも、それを、
「だから、あなたはこうしなさい」
に変えてしまった瞬間、話が違ってくる。
「助言」と「押しつけ」は違う
ここは自分でも大事だと思っている。
「一回しか生きていないんだから、他人に何も言うな」
ということではない。
人間は、自分一人の経験だけではなく、他人の経験や研究、歴史、専門知識からも学べる。
だから、
「私はこういう経験をした。こういう資料もある。こういう選択肢もある。参考になるなら使ってみて。でも、最後に決めるのはあなた。」
これはいいと思う。
でも、
「私は正しい。だからあなたもこうしなさい。」
になると違う。
助言は、相手に選択肢を渡す。
押しつけは、相手の選択権を奪う。
私はそう考えている。
「執着しない」と「愛情が薄い」は違う
私は子どもたちに対して、かなり薄いつながり方をしていると思う。
でも、それは、
「どうでもいい」
という意味ではない。
むしろ、
「あなたの人生は、あなたのもの」
という感覚に近い。
子どもが自分と違う人生を選んでもいい。
自分とは違う価値観を持ってもいい。
自分の期待通りにならなくてもいい。
必要なときに相談してくれれば、一緒に考える。
助けを求められれば助ける。
でも、
子どもの人生を親が操縦する必要はない。
これは私が母親になってから、かなり意識してきたことだと思う。
動物との関係がなぜ楽なのも、少し分かってきた
ここで、以前話した馬のことを思い出した。
30年ほど前、長野県で初めてウエスタン乗馬をした。
そのとき乗った白い馬が、ウィングさんだった。
当時の私は旅行中に風邪をひいていて、鼻水、頭痛、悪寒、熱っぽさまであった。
そんな状態で、初めてのウエスタン乗馬。
結果、
お尻の皮がズル剥けになって血まで出た。🤣
ところが、ウィングさんから降りた後、
「お尻痛てぇ……」
と思いながら、
風邪の症状がすっかり楽になっていた。
もちろん、ウィングさんが風邪を治してくれたとは医学的には言えない。
自然経過や休養、環境など、いろいろな要因が考えられる。
でも私はその体験をきっかけに、
「アニマルセラピーって何なんだろう」
と興味を持つようになった。
そして帰るとき、ウィングさんが何度も振り返ってこちらを見ていた。
私は30年経った今でも、その馬の名前を覚えている。
ウィングさん。
動物は、余計なことを言わない
人間同士なら、
「私はこう思う」
「あなたのために言っている」
「普通はこうする」
「私はこういう人間だから」
と、言葉がたくさん入ってくる。
その言葉には、意図も、評価も、期待も、時には操作も含まれる。
動物には、それがない。
もちろん動物にも意思はある。
嫌なら離れる。
怖ければ警戒する。
嬉しければ寄ってくる。
でも、人間のように、
「私はあなたをこう評価しています」
と長々説明してこない。
だからこちらは、
「今、この子はどう感じているんだろう」
と、相手の行動を観察する。
その関係には、余計な説明が少ない。
もしかしたら私は、そういう関係を心地よく感じるのかもしれない。
私は、まだ人生の途中にいる
私は自分が何千通りもの人生を経験しているわけではない。
一つの人生しか生きていない。
そして61歳になった今も、まだその途中だ。
だから、子どもたちに対しても、
「これが正解だよ」
とは言えない。
言いたくもない。
私ができるのは、
「私はこうだったよ」
「こういう考え方もあるよ」
「私はこういう失敗をしたよ」
と、自分の経験を材料として渡すことくらいだ。
その先をどうするかは、その人自身が決めればいい。
私は私の人生を生きる。
子どもは子どもの人生を生きる。
そして、必要なときだけ、お互いに手を貸す。
それくらいの距離が、私にはちょうどいい。
もしかすると、私が母親から学んだ最大のことは
「こういう親になりたい」
ということではなかったのかもしれない。
むしろ、
「私は、こういう親にはならない」
ということだったのかもしれない。
自分ができないことを、子どもに要求しない。
自分の願望を、子どもの人生に押しつけない。
自分が一度しか生きていないことを忘れて、人生の正解を語らない。
そして、
「あなたの人生は、あなたのもの」
ということを忘れない。
これは、私が母親から受け取ったものではない。
母親を見て、
「私は違う生き方をしよう」
と、自分で選び取ったものだ。
人生は一回しかない。
だからこそ私は、誰かの人生を自分の正解で塗りつぶすより、
「あなたはどう生きたい?」
と聞ける人でいたいと思う。
私自身も、まだその答えを探している途中なのだから。
◆あとがき
そして今日も私は思う。
「一回しか生きてへんのに、なんでそんなに人生の正解知っとるねん。」
……と。🤣
たぶん私は、これからも誰かに「こう生きろ」と言われたら、
「ほう。それ、何回人生やった人の意見なん?」
と心の中でツッコむと思う。
そして自分自身にも、
「お前も一回しか生きてへんからな。」
と釘を刺しておく。
それくらいで、ちょうどいい。
人生、まだ途中。
だから今日も、分からないことは分からないまま、ちょっとずつ生きていく。
ドーベルマンズとウィングさんのことを思い出しながら。
