5年前に綴ったものの再投稿です。
2011年 の母の日も5月8日でした。 『季節はずれの無花果』
「無花果が食べたい・・・・。」
母がポツリと言った。
12年まえ、ワタシの退院と入れ違うようにして、母が入院した。
中咽頭がんだった。
自己免疫疾患 がある母の身体では手術に耐えられないということで、手術はなく(あとから思うと、できなくてよかった。)、化学療法(抗がん剤)と悪性腫瘍へのピンポイントの放射線照射を続けるという治療方針が決まり、入院は長期におよんだ。(またこの話は、いずれゆっくりと)
抗がん剤による体力消耗が激しく、一時は無菌室に入ったときは、さすがに緊張したが、抗がん剤を打ち切った後は、こちらが驚くほど、回復してくれた。
毎日、ワタシは母の見舞いに訪れた。
退院はしたものの右半身のまひがひどく、仕事に戻れなかったワタシも、自身のリハビリに行く以外は何もやることがないし、出来ることも限られていたから、夕方から訪れて消灯前の面会時間終了時まで母のそばにいた。
ほとんどは、洗濯をしたり、身の回りの世話や雑用をしていたが、ベットの横にあるテレビを見ながら、おしゃべりをしたり、他の患者さんの話をしたりなど。いつのまにか、母もワタシが来るのを当たり前のように思っていた。
ようやく、一般病棟に移った母は、朝晩の放射線照射の時間以外は、何もなく、退屈だ、病院食は不味いと、愚痴をこぼしてばかりいた。
休業中の身が幸いして、ワタシはがんのことについて調べることができた。
そのころは、いまほどインターネットも普及はしていなかったし、大概は、本屋で医療関係の専門書を立ち読みし情報を得ていたが(本屋さん、スミマセン・・・・)、「食事」がこれほど大事といいうことまでは、当時、意識が及ばなかったものの、「ストレス」が遺伝子になんらかの傷をつけがん細胞になる要因のひとつだ、ということは十分理解できたので、母のストレスにならないように努めたかった。そして、なによりもワタシの大怪我がそのストレスの原因ではないかと自らを責めていた。
なので、母が読みたいという書物があれば見つけ、外出以外にやりたいことはやらせ、食べたいというものがあれば買ってきた。
食事も、とくに制限がなく、医師からも食べたいものを食べていい、と言われていた。
不思議なことに、食欲は衰えていなかった。
「○○の鱒寿司が食べたいわ~。」
「たまには、中華で酢豚もいいわね~。」
「デザートには、バニラとチョコのアイスクリーム!」
・・・・・・ってな具合で、ワタシは母の欲しいものを探してきては、質素で味気ない病院での夕食に楽しみを増やした。
ワタシも母のわがままがまんざら嫌でもなく、むしろ探しにデパ地下を巡って母を喜ばせるのがうれしかった。
(今、思うと、化学調味料たっぷり、白砂糖たっぶりばかりのものだったので、オソロシイが・・・・・。)
ワタシ自身も「治そう」とう前向きな気持ちが芽生えてきた。
年も明けて、春を迎えようとしたころ、母の放射線治療が一日2回から1回になったが、白血球の数値がなかなか3000を上回らないので、退院がまた先延ばしになった。
その日は、夜半に雪が降るかもしれない、と、テレビの天気予報を聞き、早目に病室を後にすることにした。
母がエレベーターの前まで見送りに来て、下りのボタンを押した。
エレベーターのドアが開き、ワタシが中に乗ろうとしたとき、
「ねえ・・・・」
と、母が言った。
「無花果が食べたい・・・・」
「えっ?」
と、言い終わらないうちに、満員のエレベーターのドアが閉まった。
そのとき一瞬見た母の顔は、今にも泣き出しそうなだだっ子のようだった。
無花果
無花果の旬は、たしか夏の終わりだ。店頭では、この時期見かけない。
なんて、無理なこと言うんだろう・・・・・?
母らしくないなあ・・・・。
もう、まったく・・・・・。
でも、どうしても母にあけたかった。
いろいろ探したあげく、結局は、流通業に勤める知り合いに頼み込み、ハウス栽培の製菓用に卸す無花果を特別に宅配してもらうことにした。
2日後、届いた無花果を手に、母の病室に向かった。
母は、季節外れの無花果を見た途端、目と口を大きくひらいて驚いてみせた。
そのとき・・・・・
ワタシの脳裏に一瞬だけある描写が見えた。
「ワタシの娘だ・・・・・。」
ワタシが、“ワタシの娘”である小さい女の子と接している描写がフラッシュバックで現れた。
どっかで見たことがある・・・・、デジャヴーな感覚。
そして、その女の子は母だ。
そう、過去生で娘だったのだ。『娘だったのかもしれない・・・・』ではなく、『娘だった』とかなりの確信として過去生が見えた・・・・・。
母のことが心配で、心配でしかたなくなるのは、自分の『娘だった』からだ。
可笑しいと思われるだろうが、ワタシはその懐かしい感覚を今でも信じている。
今日、電話口で、届いたお花とともに添えたTシャツに母が大喜びしていた。
太極拳をしている母に、と、小さい24のパンダたちが太極拳24式の型をそれぞれしている絵の柄のついた、北京で見つけたピンクのTシャツ。ほとんど冗談のつもりで送ったのだが、たいそうお気に入りのようだ。
「かわいいじゃない~、コレ。次のお稽古の時に着ようっと。ねえ、これでグレーとか黒とかないの?
今度、見つけたらまた買って来て!」
はいはい、わかりました。
その調子でいつまでも元気でいてね。
**************
「無花果が食べたい・・・・。」
母がポツリと言った。
12年まえ、ワタシの退院と入れ違うようにして、母が入院した。
中咽頭がんだった。
自己免疫疾患 がある母の身体では手術に耐えられないということで、手術はなく(あとから思うと、できなくてよかった。)、化学療法(抗がん剤)と悪性腫瘍へのピンポイントの放射線照射を続けるという治療方針が決まり、入院は長期におよんだ。(またこの話は、いずれゆっくりと)
抗がん剤による体力消耗が激しく、一時は無菌室に入ったときは、さすがに緊張したが、抗がん剤を打ち切った後は、こちらが驚くほど、回復してくれた。
毎日、ワタシは母の見舞いに訪れた。
退院はしたものの右半身のまひがひどく、仕事に戻れなかったワタシも、自身のリハビリに行く以外は何もやることがないし、出来ることも限られていたから、夕方から訪れて消灯前の面会時間終了時まで母のそばにいた。
ほとんどは、洗濯をしたり、身の回りの世話や雑用をしていたが、ベットの横にあるテレビを見ながら、おしゃべりをしたり、他の患者さんの話をしたりなど。いつのまにか、母もワタシが来るのを当たり前のように思っていた。
ようやく、一般病棟に移った母は、朝晩の放射線照射の時間以外は、何もなく、退屈だ、病院食は不味いと、愚痴をこぼしてばかりいた。
休業中の身が幸いして、ワタシはがんのことについて調べることができた。
そのころは、いまほどインターネットも普及はしていなかったし、大概は、本屋で医療関係の専門書を立ち読みし情報を得ていたが(本屋さん、スミマセン・・・・)、「食事」がこれほど大事といいうことまでは、当時、意識が及ばなかったものの、「ストレス」が遺伝子になんらかの傷をつけがん細胞になる要因のひとつだ、ということは十分理解できたので、母のストレスにならないように努めたかった。そして、なによりもワタシの大怪我がそのストレスの原因ではないかと自らを責めていた。
なので、母が読みたいという書物があれば見つけ、外出以外にやりたいことはやらせ、食べたいというものがあれば買ってきた。
食事も、とくに制限がなく、医師からも食べたいものを食べていい、と言われていた。
不思議なことに、食欲は衰えていなかった。
「○○の鱒寿司が食べたいわ~。」
「たまには、中華で酢豚もいいわね~。」
「デザートには、バニラとチョコのアイスクリーム!」
・・・・・・ってな具合で、ワタシは母の欲しいものを探してきては、質素で味気ない病院での夕食に楽しみを増やした。
ワタシも母のわがままがまんざら嫌でもなく、むしろ探しにデパ地下を巡って母を喜ばせるのがうれしかった。
(今、思うと、化学調味料たっぷり、白砂糖たっぶりばかりのものだったので、オソロシイが・・・・・。)
ワタシ自身も「治そう」とう前向きな気持ちが芽生えてきた。
年も明けて、春を迎えようとしたころ、母の放射線治療が一日2回から1回になったが、白血球の数値がなかなか3000を上回らないので、退院がまた先延ばしになった。
その日は、夜半に雪が降るかもしれない、と、テレビの天気予報を聞き、早目に病室を後にすることにした。
母がエレベーターの前まで見送りに来て、下りのボタンを押した。
エレベーターのドアが開き、ワタシが中に乗ろうとしたとき、
「ねえ・・・・」
と、母が言った。
「無花果が食べたい・・・・」
「えっ?」
と、言い終わらないうちに、満員のエレベーターのドアが閉まった。
そのとき一瞬見た母の顔は、今にも泣き出しそうなだだっ子のようだった。
無花果
無花果の旬は、たしか夏の終わりだ。店頭では、この時期見かけない。
なんて、無理なこと言うんだろう・・・・・?
母らしくないなあ・・・・。
もう、まったく・・・・・。
でも、どうしても母にあけたかった。
いろいろ探したあげく、結局は、流通業に勤める知り合いに頼み込み、ハウス栽培の製菓用に卸す無花果を特別に宅配してもらうことにした。
2日後、届いた無花果を手に、母の病室に向かった。
母は、季節外れの無花果を見た途端、目と口を大きくひらいて驚いてみせた。
そのとき・・・・・
ワタシの脳裏に一瞬だけある描写が見えた。
「ワタシの娘だ・・・・・。」
ワタシが、“ワタシの娘”である小さい女の子と接している描写がフラッシュバックで現れた。
どっかで見たことがある・・・・、デジャヴーな感覚。
そして、その女の子は母だ。
そう、過去生で娘だったのだ。『娘だったのかもしれない・・・・』ではなく、『娘だった』とかなりの確信として過去生が見えた・・・・・。
母のことが心配で、心配でしかたなくなるのは、自分の『娘だった』からだ。
可笑しいと思われるだろうが、ワタシはその懐かしい感覚を今でも信じている。
今日、電話口で、届いたお花とともに添えたTシャツに母が大喜びしていた。
太極拳をしている母に、と、小さい24のパンダたちが太極拳24式の型をそれぞれしている絵の柄のついた、北京で見つけたピンクのTシャツ。ほとんど冗談のつもりで送ったのだが、たいそうお気に入りのようだ。
「かわいいじゃない~、コレ。次のお稽古の時に着ようっと。ねえ、これでグレーとか黒とかないの?
今度、見つけたらまた買って来て!」
はいはい、わかりました。
その調子でいつまでも元気でいてね。
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つぶやき
ゴメンね。母になれなくて。
孫を抱くこともできなくて。
母になりたかったな。