それは土地のエネルギーだった。
土地や場のエネルギーに敏感だということは子どもの頃は全く気づかなかった。
しかし大人になってしばらくして、そういうことに気づき始めると思い当たることがいくつもあるのだ。
僕は知らず知らずのうちにいろいろなことを感じていた。
そしてそれが後々沖縄に導かれるためのアンテナにもなった。
7歳で突然左足が動かなくなってしまった僕は失意のどん底に落ちたのだろうか。
思い返してみるとそれほどでもなかった気がする。
まだ7歳だから何が何だかわからない。それが正直なところだった。
きっと中学や高校でこんなことになっていたら、そっちの方が精神的に落ち込んだことだろう。
入院や痛い検査は嫌だったが、退院してしまえばそれなりに生活していた。
いや、でも本当だろうか。本当は相当辛かったのかもしれない。
入院が辛かったことは覚えている。
でも退院したら悲しみはすべて消えたのだろうか。
野球が好きで好きでたまらない少年が野球ができないという悲しみはどれほどだったのだろう。
全校児童1000人の中でひとりだけ松葉杖を使わなければ歩けないという悲しみはどれほどだったのか。
毎回体育の授業を見学する悲しみは・・。
本当にそれほどでもなかったのか。
ただ感情に蓋をしてしまっただけではないのか。
正直なところそこまではわからない。
なんとか治らないかな。
ずっとそう思っていたことだけは確かだ。
小学校高学年の時に近所の空き地で四葉のクローバーをいくつも見つけた時があった。
これで足が治らないかな・・・。
子どもの僕は祈るようにそう思い、それを大切に家に持ち帰った。
人は生まれてくる時に人生の大きな出来事、条件を受け入れ、了承してからこの世界に来るという。
障害、病気、親との早過ぎる別れ、短過ぎる自分の一生・・・。
不幸に思えるそんなことさえも魂は了承しているという。
それゆえ乗り越えられない困難はないのだ。
僕自身も早い段階でこの境遇を受け入れたと思う。
いつ受け入れたのかは思い出せないが、中学に入る頃には悲しんだり、自分の運命を恨むようなことは全くなくなっていた。
小学校5年、中1、中3と3回右足の膝の手術をした。
麻痺した左足は発育が悪いため左右の足の長さに開きが出ないよう、なんともない右足の膝に大きなホチキスのような金具を埋め込み、成長を抑えたのだ。
手術の後は3週間ほどギブスをしたままだった。
そしてギブスを外すと膝が完全に固まってしまって曲がらないのだった。
膝を曲げる訓練が1か月続く。
大人でも泣くという痛みだ。
そしてトイレに行けず、ベッドの上で用を足すのも苦痛だった。
食欲もなくなった。
入院中はさすがに何で自分だけこんな目に、と思った。
障害のある子どもの病棟だったから入院している子どもたちはみんな障害を抱えている。
彼らは主に手術のために入院し、退院すれば養護学校へ戻っていく。
しかし、自分の通っている小学校のことを考えれば1000人もいる子どもたちの中で自分だけがこんな目にあっているのだ。
どうして? どうしてなんだ!
消灯した無機質な病室でそんなことを思う夜も少なくなかった。
大人になり、いろいろな人を知り、実は誰でもひとりひとり違っていて、みんな変わっているのだ、と気づいたものの「自分はみんなとは違う、みんなはそれが好きかもしれないが僕はNOだ!」そんな意識が強かったのはこういう体験から来ているのかもしれない。
みんなと違う部分は隠しておく。それが日本的な作法かもしれないが、僕の場合は「僕は違う!」とことさら言いたくなるのだった。
それが僕の心の叫びだったのだろうか。