人を信じないとか、そういうことではなく
「言ってること本当かなぁ」
というスタンスはいつも大事だと思ってる。
そもそもウソを言っている場合もあるし、
その人自身が大きく事実誤認をしている場合もあるし、
何かに乗せられてしまっている場合もある。
本人がウソついているつもりのない「誠実なウソ」「正直なウソ」は結構ある。
そもそも、
あるものをありのままで見る、
ということはとても難しいし、見たいように見てしまうのが人間の常。
自分だっていつもそうで。
で、
科学の知識や数学的思考、
歴史から分かる人の心理や行動、
を知っておくことは、とても役に立つ。
この辺は教育を通して学べると良いが。
つまり、歴史を学んでないで、「歴史に」学べ。
実験をしてないで、「実験姿勢」を学べ。
話を戻すと、
どんな時も
その人は信頼しているけど、言っている内容は信用しない
ということは普通にあってよい。
そこを畏れ多くも、かしこみかしこみ、で
そこを分けて考えるのをウヤムヤにしてるから
「君は私の言うことが信用できないってのか!」
みたいなことが起きる。
アナタの言ってること=アナタ、ではない。
アナタは信頼して尊敬してますけど、言っている内容は違うと思います、
はあってよい。
そもそもそういう分解は出来ておかないと。
分解できてないから、
高貴な方から下されたものはいつまでも高貴であって、
高貴な方が腰かけただけの石は何百年経っても伝承の地である。
そっちベクトルは良いとして、
それと同じ話が
「穢(ケガ)れたものは、いつまでも穢れている」
「穢れからでたものは、全て穢れている」
という考えであり。
福島原発から出たものは例えば科学的にどうあれ全て「穢れ」であって。
そして犯罪者は一生、犯罪者のままである。
肩書を気にしたり、すぐレッテル貼ったり、血液型で分けたりする。
意思決定の場で「汚点」だとか「品位」だとかいう言葉が判断基準としてまかり通る。
その辺、ほんと思考停止だ。
「考えてる!」
と言われるが、その小さな枠の中でちょこまかと調整している限り、
思考の大海原から見ると「停止」しているに等しい。
船の中であちこち走って汗をかいていても、それは船が前進しているとは言わない。
とかなんとか、新聞読みながら思ってた。
画像は、科学と神社の融合を試してみた。
