僕らのほどんど全員は、正解を当てる教育をずっと受けてきて。

 

で、大人になって子供の教育的観点で物事を見るようになってから、どうしたってそっちに偏りがちな義務教育課程に対し、家でやらなきゃいけないことを考えるようになった。

 

 

正解を探すクセ

正解に頼るクセ(そこに責任を預けるクセ)

 

 

これは結構染みつきやすい。

 

  

でも社会の中でそもそも正解があることなんて本当に限られていて、

プロセスまで含めればほぼ無いに等しいレベル。

 

あと、正解言わなきゃ恥ずかしい、とか、そこに使うエネルギーやチャンスロス、本当に勿体ない。

 

 

 

それから、

僕は書き順とか決まってることがホント意味不明だと思っていて、今でもそう思ってる(だから今でも全然興味ない、子供にも教えない)。

 

書きやすい、覚えやすい、自分なりに合理的な書き順で工夫して書けばいいんじゃないの。

 

そもそも左利きの人にとって、どれもメチャクチャ書きにくいんだ、これが。

(ちなみに僕は元々左利き)

 

 

というか、手書き信奉からの若干の変化すら見えないことには危機感はある。

書き順も含めて手書きというのは、あくまで好きな人の”趣味”で”文化”や”アート”で良いと思う。

 

文字の役割は何で、何が出来るようになった方が良いからやるの?

手段として手書きに縛り、そこに膨大な時間を投下し続けるのは、その目的に適ってるの?

書いて覚える必要があるの?

書いて覚えるのが最良の手段?(僕はメチャクチャ嫌いだった)

識字テストで良くないか?

 

 

本来的に、新しいことを覚える勉強は好きだった子供たちが、

勉強嫌いに陥っていくのは、

 

「みんなやってるから」

「これが良いから」

 

と、それぞれの特性を無視してステレオタイプに嫌なことでも強いるプロセス。

 

かくして

「勉強=嫌なもの」

の完成

 

そしてその教育を受けてきた大人たちが、その刷り込みを家庭でもひと言ひと言で強化していくのでありまして。

 

 

そういえば

僕は小学校の頃、文字の読み書きが嫌いだった。

ほんと苦痛だから。

 

小学校3年になるまでほとんど文字の読み書きが出来なかった(しなかった)らしい。

今で言えば何らかのレッテルが貼られて特別の扱いだったかも知れない。

親も大らかだったと思う。

 

 

そんな僕だったけども、そういえば親からは「人とは違う才能がある」というようなことをずっと言われてきた気がする。

自分を振り返って、周りがどうであれ大人が子供信じて動じないことは大事なんだろうと思う。

 

 

 

さて、話を戻すと、 

学校で教えられる原稿用紙の使い方(段落変えるときはどうとか)も、ホント意味不明だと思っていたので、全然覚えなかった。

先生から指摘されても、やる意味が分からないからスルーだ。

 

そういえばレタリングもそうだ。何これと思いながらやっていた。

理科の実験もそうだ。やる前から結果分かってる。

作業だ。ワクワクしない。

ちなみに漢文もそうだ。

(古文は実は割と好きだった、百人一首が好きだったから)

 

 

この辺の状況は今は知らない。

流石にレタリングとかはもうないだろう。  

 

 

もちろん学校が悪いとか学校任せとか、そんなつもりは無く

じゃあそれを踏まえて親として子供たちにしなきゃいけないことを考えておかなきゃと思っているわけです。

 

しかし、学校教育と社会で生きていくために必要な力のギャップはめちゃくちゃあるなぁ(もちろん学校に全てやって欲しいなんて思ってはいない)。

 

 

「この宿題、面白くないならやらんでええと思うけど」と思いながら、

どう話をしようかと悩むことはある。

 

結論、

父としての考えをちゃんと話して

「だけど、今はやっとくことにしよう」

ということに落ち着かせてる。

 

うーん。ここは自分の弱い所ではある。

 

 

なんかめっちゃ長くなった。