(少々長文になりますが、演じることについてブログにまとめました。私の文書を書く練習と思ってお付き合いください)

Facebookには以前も書きましたが、Ali Strokerがトニー賞を受賞しました。

このニュース、ただ障害のある女優、車椅子の女優がトニー賞を取った、というだけでなく(もちろんそこも素晴らしいのですが)
別の意味で感慨深く、そして改めて役を演じることについて考えさせられました。

なぜかと言うと、それまでもブロードウエイにおいて初の車椅子女優ということで有名でしたが、彼女の出演したミュージカルが「オクラホマ」という、1943年が初演、現在まで何度も世界各地で上演されているとても有名なミュージカルであるということ。
彼女の役はアド・アニー、劇中に出てくる二組のカップルのうちの、片割れ。お茶目で、気が多い、かわいらしいキャラクターです。
初演においてはもちろんこの役を演じた役者に障害はありませんし、車椅子にも乗っていません。

※オクラホマ
『オクラホマ!』(Oklahoma!)は、1943年初演のブロードウェイミュージカルである。
リン・リッグズの1931年の劇「ライラックは緑に育つ」をもとに、ロジャース&ハマースタインが作曲した。アメリカ中西部・オクラホマ州の農村を舞台に、カウボーイと農家の娘との恋の三角関係を明るく陽気に描いたもので、「美しい朝」「ノーとは言えない」「恋仲と人は言う」、そして終幕の「オクラホマ!」の大合唱などが鏤められた作品である。
(Wikipediaより抜粋)

私自身は役を演じる中で、この障害を含めた身体をどう表現するのか、考えることが多くあります。

夢歩行虚構団という劇団所属時代に、代表で脚本演出のだるままどかが毎公演私に「森田、今回はどうする?」と聞いてくれていたのを思い出します。だるま氏は、役を演じるに対し、以下の3つの仮定をし、私にどう表現するかを問うてくれていました。

1.元々の役自体に足が悪いなどの障害を持っている

2.役に障害はないが、私が演じることにより、足が悪いなどの設定を加える、もしくは含ませる
3.役に障害がない。そして私も障害を一切関係なく演じる

この3つの手法を提示し、毎回私に決めさせていた。観客から見てこの設定が細かく伝わっていたかどうかはわからないが、この3つには演じる上で大きな違いがある。

そして特に3を選択した場合は、観客に自分の障害を含んだ身体を役に投影することに対しての責任が問われる。つまり障害のある身体でありながら、障害のない身体、いえそういったことも超えた、役として存在し、観客にその事を納得させなくてはならない。

舞踊評論家の尼ケ崎彬氏が「ダンス・クリティーク」という本の中で、俳優の「表現する身体」を『観客が表現する俳優自身の身体を意識せず、役(キャラクター)という表現された仮象の身体だけを見るのである。このとき俳優の身体は透明な媒体となるだろう』と書いている。
だるま氏から求められていた3はこれである。

ただ、「透明な媒体」とは本当に存在するのか、という疑問は残る。「俳優自身の身体を意識せず」という現象は存在するのかもしれないし、私自身も俳優として実感できる部分があるが、障害のある身体は透明となりうるのか。

オリジナルキャラクターならそこまで 求める必要がないのかもしれません。

また特に身体に特徴があるゆえ、障害のある役者が求められがちな異種異様なポジションともまた違う。もちろんそれはその人自身しか演じられないし、魅せる能力が必要であり、作品クォリティをあげる上で大変重要な要素であることには変わりないのです。そこは誤解ないようにしていただきたいです。

しかし今回のAli Strokerの受賞は、役を演じる可能性を大きく広げ、それが認められたという、快挙であると思っています。

もちろんそれは役者だけの力ではなく、演出の力も大いに作用するのですが。
技術でもって、役としての存在感を出し、観客を魅了した。

ちなみに、フェイスブックに、「車椅子の女優じゃなくて、Ali Strokerと書く森田さんが素敵」と友人に言われましたが、もう「障害者」とか「車椅子」とかカテゴライズする時代じゃなくなってくる日を願っています。

だからこそ、技術を学ぶ機会においても、機会の拡大を得られるようになって欲しい。大学機関、俳優養成所など、もっとチャレンジし、受け入れられるように。