いじめで失うものは、相手だけではない ― 自分自身の未来である
いじめというと、多くの人は「被害者がかわいそう」「いじめは悪いことだからやめよう」と考えます。
もちろん、それは間違いではありません。
しかし、私はもう一つ大切な視点があると思っています。
それは、いじめをすること、加担すること、見て見ぬふりをすることは、被害者だけでなく、自分自身の人格形成にも大きな影響を与えるということです。
人は、いじめにどう向き合うかで人格が表れる
いじめが起きたとき、人はさまざまな立場を選びます。
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主導して人を傷つける人
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周囲に流されて加担する人
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見て見ぬふりをする人
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「おかしい」と声を上げる人
その選択には、その人がこれまで育んできた価値観や人格、そして家庭や周囲の環境が表れやすいと言えます。
もちろん、一度流されてしまったからといって、その人の人生が決まるわけではありません。
大切なのは、「なぜ自分は流されたのか」「次はどう行動するのか」を考え、人として成長することです。
信仰から見る「流されること」の問題
信仰の視点から見ると、悪の働きは単に人を悪事へ誘うことだけではありません。
良心よりも周囲を優先し、自分で善悪を判断できない人を増やすこと。
これも、人間の成長を妨げる大きな問題だと考えます。
「みんながやっているから。」
「逆らうと自分が標的になるから。」
「先生も何も言わないから。」
このように流され続けると、自分の良心に従って判断する力は少しずつ弱くなります。
信仰では、人間は自由な意思を与えられています。
だからこそ、本当に問われるのは「いじめをしたかどうか」だけではなく、自分の良心に従って行動できたかではないでしょうか。
暴力で問題を解決する習慣は、将来にも影響する
いじめとは、言葉であれ態度であれ、暴力や圧力によって相手を支配しようとする行為です。
その考え方を改めないまま大人になると、人間関係でも同じような傾向が現れやすくなります。
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力や威圧で相手を従わせようとする。
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逆に、圧力に屈して自分の意思を失う。
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対話ではなく支配や服従で関係を築いてしまう。
しかし、本当に良い夫婦関係や家族関係は、そのような関係では築けません。
円満な家庭とは、お互いを一人の人格として尊重し、自由・平等・公正を大切にする関係です。
その土台となるのは、相手を思いどおりに動かす力ではなく、互いを尊重し、信頼を築く力です。
真の自由とは何か
日本社会には、多くの先人たちが築いてきた自由や平等、公正という大切な価値があります。
しかし、その恩恵を本当に生かせるのは、自分だけの自由ではなく、相手の自由も尊重できる人です。
自由とは、自分の思いどおりに振る舞うことではありません。
相手の人格や自由を尊重し、その境界を守ることによって成り立つものです。
相手の自由を侵害し、力や圧力で支配しようとすることは、真の自由の実践ではありません。
いじめを通して問われているもの
いじめは、単なる学校の問題ではありません。
そこには、「どのような人間になるのか」という人生全体の課題があります。
もし過去に流されてしまった経験があるなら、それを恥じ続ける必要はありません。
大切なのは、その経験から学び、次に同じ場面に立ったとき、自分の良心に従って行動できる人になることです。
いじめを止める勇気を持つこと。
流されない自分を育てること。
相手の自由を尊重し、自分の自由にも責任を持つこと。
その積み重ねが、人としての成熟につながり、やがて信頼される友人、職場、家庭、そして人生へとつながっていくのだと思います。
いじめられた側は、自分と向き合い事実と向き合うと克服するそれで終わるが、いじめた側は克服したら、いじめたことの重大さに気づくことになる。
