関西で、いじめの話を耳にすることがあります。

でも、聞けば聞くほど思うのです。


これは本当に「子どもの問題」なのでしょうか。

 

もちろんそのようなことをいかなる理由でも、子供でも
いじめをしている支配的な思想は害悪でしかありません。


それを容認し、いじめをしている本人もその親も、
それに黙認や協力する同級生も先生も顧問も同罪であり良くはありません。

なぜならいじめを容認する人間とは自分のため率先し距離を置く存在です。
 

でなければ「加害者側」に巻き込まれます。

 

バレたら最後、社会的に加害者認定されます。
 

ただ、大人の問題という側面もあります。

 

検索すると話題に上がっているものの一つに、熊本の大津高校サッカー部のいじめに関する記事があります。

 

 

 


ただ、これは特別な話ではありません。規模の違いはあれ、似た構造はどこにでもあります

 

親側としたらサッカー部はこのようなことが起きやすいのではないか?などと心配します。

 

本来、大人の役割はシンプルです。
子どもの間違いを止め、正しく導くこと。

それが機能していないとき、いじめは起きるのではなく、「放置されている」と言うべきです。

 

では、なぜ止まらないのか。

理由は難しくありません。

 

・問題を表に出したくない(保身)


・評価を下げたくない(事なかれ主義)


・関係を壊したくない(同調圧力)

 

その結果、何が起きるか。

 

「止めるべき大人」が沈黙し、


「声を上げた側」が孤立する。

 

構造としては、これだけです。

 

中には、いじめを軽く扱ったり、場合によっては助長するような発言をしてしまう大人もいます。


しかし、それを「事情があるから」で流していい問題ではありません。

 

定年が近いから。立場があるから。周りは理由を探して目をつむったりもあるようです。


——それで目をつぶっていい理由になるでしょうか。

 

むしろ逆です。


そういう立場の人間こそ、責任から逃げてはいけない。

 

もちろん、現場で本気で向き合っている先生もいます。


だからこそ、一部の無責任さが全体の信頼を壊してしまうことが問題なのです。

そして、この問題は感情論だけでは終わらせてはいけません。

逃がしてもいけません。

 

教育者が不正を教えるのなら、学校教育にかかわるべきではない。

技術を教えたいなら、ほかの人間教育を伴わない専門機関に行けばよい。

 

学校はそれではない。なので、

 

・外部に相談する
・記録を残す
・学校の外に伝える

 

「内側で解決できない前提」で動くことも必要です。

 

もう一つ、大事なことがあります。

 

いじめは、「やった側」が軽く考えがちで、
「やられた側」だけが長く背負います。

 

でも本当は逆です。


与えた側の責任のほうが、重い。

だからこそ、許さないという姿勢も必要になります。

 

恨みつらみを抱えると辛いのでそこは捨てたほうがいい。

捨てにくいけど捨てたほうがいいんだなと思うほうが自分の

人生を生きられます。

 

ですが、なかったことにして許す必要はない

あなたの受けた苦しみその期間、これからも思い出すことを思うと

加害者に重いペナルティがあっても、たとえ進路が絶たれても
重荷に思う必要はなく当然です。

 

これが責任ですし、いじめた側が認識できてない責任です。

ここは一生思い出せるよう与えてもいいくらいのものです。

これがしつけで教育です。

 

進路より人としてどうあるべきか?これがないから人に危害を加えるのです。

危険人物なのですよ。それに黙認や従っている人もそのコマになっている。

 

普通の人はいじめが常態化、長期化、絶対にしません。

普通ではないからこちらのような良識で考えない事。

 

そう考えたら勇気をもっていじめを主導している人からは離れることです。

これは一つの病気やトラウマの可能性があり、損得でしか見ていないので
改心を求めるのではなくできないよう、周りが離れてしまうのがベストです。

 

子どもだから軽い問題、ではありません。
これが大人になると、人の人生や命に関わる問題へと変わっていきます。

今ここで止めなければ、形を変えて繰り返されるだけです。

この構造が、多くの人の目に触れること。
それ自体に意味があると思っています。

正す、というより、


「そのままでは通用しない空気」をつくること。

 

そして子どもたちが、
それを反面教師にできる環境にすること。

誰かの人生に傷を残した以上、責任は消えません。
だからこそ、その重さから目をそらさないこと。

それが、本当の教育ではないでしょうか。