アウガルテン磁器工房
昨年3月、ウィーン旅行の2日目です。
この日は、午前中にアウガルテンを見た後、午後はツアーでウィーンの森を訪ねました。
今回のブログは、そのうちアウガルテン…ウィーン少年合唱団、ハプスブルク家に愛された「ウィーンの薔薇」アウガルテン磁器工房、そしてそのすぐ近くにあるナチスの高射砲塔について書きます。
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ホテルで迎えた初めての朝。
朝食は結構多彩で、ハム、ソーセージ、チーズのほか温菜もいくつかあり、何種類もあるパンも夫婦で楽しむことができました。
出発前の羽田空港ANAラウンジでは既にビュッフェが中止されていましたが、こちらでは旅行の最後までビュッフェの朝食を楽しむことができました。
支度をして出かける時、もう一度ホテルの壁面にあるブルックナーのレリーフを拝みにいきました。
↓車のちょっと上にあるレリーフ、見えますか?
敬愛するブルックナー先生に朝のご挨拶です。
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出発前に、このホテル・ド・フランスがあるショッテントアについて一言。
ここは、リンクができる前、ウィーンが城壁に囲まれていた時代には城門があった場所でした。
城壁の外側にはグラシという広大な空き地(建築禁止区域)があり、ナポレオンが攻めてくるまでは堀もあったようで、オスマントルコからの攻撃に備えるとともに、平時には市民の憩いの場でもあったようです。
リンクの南側で言うと、今の国立歌劇場は城壁の中。リンクの外側にはグラシがあり、今の楽友協会からカールスプラッツ(カールス教会前の緑地広場)、ブルックナー通り(フランス大使館のあたり)までがグラシの範囲だったそうです。
ということは、初日の夕方に訪れた芸術アカデミーやシラー像は昔のグラシの上に建っているのでしょう。その少し南のアン・デア・ウィーン劇場はグラシの外側の新市街地に(モーツァルトの昔から)建っているのだと思います。
そのウィーン城塞都市も1809年のナポレオン軍の攻撃の前にあっけなく陥落。城壁の無力さが明らかになりました。
そして、1855年、グラシの中に初めて建築が認められたのが、ホテル・ド・フランスのすぐ北にあるヴォティーフ教会です。ブログ①でも紹介しましたね。
↓これが、ホテルの横からヴォティーフ教会をを望んだ風景です。昔で言うと、城門を背にグラシを望む風景、ということになります。
その直後の1856年にはグラシ内の建築禁止が解除され、58年から城壁の撤去が始まり、ウィーンの街は今日の姿に向けて変貌を開始します。
初日に見たウィーン大学も市庁舎もリンクの外側。要するにグラシがあった場所に建てられたものです。
城壁がリンクに代わり、グラシが再開発に最大限活用されたことが、現在のウィーン市街地の魅力の大きな源泉となっているのですね。
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さて、出発前の能書きが長くなりましたが、今日の最初の目的地はアウガルテンです。
ショッテントアから地下鉄U2でカールスプラッツとは逆方向に2駅、ターボー・シュトラッセに来ました。
このあたりに来るのは初めてです。
ウィーン旧市街の北側。ドナウ川の支流のドナウ運河が旧市街の北東をかすめており、ここはその向こう岸(旧市街の外側)になります。
アウガルテンは、直訳すると「中洲公園」になるらしいのですが、博多とはイメージ違いますね。
ここには、ウィーン少年合唱団の本拠地、宮殿、磁器工房、そしてナチス時代の高射砲塔があります。
順に見ていきましょう。
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駅から少し歩くと、アウガルテンの端にある「MuTh」(ムート)が見えました。「Music & Theater」の略です。
ここは、ウィーン少年合唱団の本拠地でありコンサートホールでもあります。
2012年にできた新しい建物なのできれいですね。
ムートから公園の中に入って少し歩くと、閉ざされた門の奥に立派な建物が。アウガルテン宮殿です。
ここがウィーン少年合唱団の宿舎兼練習場だと書いてある記事を多く見ました。
先日、ホーフブルクの宮廷礼拝所を見ましたが、ここで毎週聖歌を歌っているのが「天使の歌声」ウィーン少年合唱団です。
アウガルテンからの帰りにもう少し書きたいと思います。
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しばらく歩くと、立派な門が。ここは開かれていて入れます。
並木道の向こうに優美な建物。アウガルテン磁器工房です。
並木道を抜けると、広い空間にゆったりと構えた工房。宮殿のように優雅です。
左側に見える、優雅とは正反対のコンクリート打ちっぱなしの建造物についてはまたあとで。
このアウガルテン磁器工房、1718年に別の場所で「ウィーン磁器工房」として発足。マイセンに次ぐヨーロッパで2番目の磁器工房だったそうです。
1744年にはマリア・テレジアによって皇室直属の磁器工房となりましたが、その後のハプスブルク家の衰退と競争激化で1864年に閉鎖。
1924年、ここアウガルテンに場所を移して再興されました。
1924年といえば既にハプスブルク帝国はなく、新生オーストリア共和国もそこまで手が回らなかったでしょうから、民間資本なんでしょうね。
アウガルテン磁器で有名なのが「ウィーンの薔薇」です。
アウガルテンの閉鎖中は、ハンガリーの「ヘレンド」がハプスブルク家御用達で「ウィーンの薔薇」の磁器を作りました。
このため、現在「ウィーンの薔薇」はアウガルテンとヘレンドの2種類があります。
今回、ブダペストのヘレンド・ショップにも行ってきましたが、オーストリア=ハンガリー二重帝国の歴史を背負う二重の「ウィーンの薔薇」です。
工房の中に入ると、一面にアウガルテンの磁器が展示され、安く売られています。日本では高くて手が出ないので、ここで小皿を少し買いました。
工房の見学に誘われましたが、午後の予定もあるので今回は見送り。2階の展示室に上がります。
↓窯の模型です。
この工房の歴史の展示もあります。
↓マリア・テレジアがウィーン磁器工房を国有化した場面です。
お土産に買ったものを紹介しましょう。最終日にシュテファン寺院横の店舗で買ったものも含まれます。小皿のほか、マグネット、コースター、そして「アウガルテン・フルーツティー」があったのにはびっくりしました。
小皿、ティー、マグネットの薔薇の絵柄が「ウィーンの薔薇」を含むブーケ。コースターとマグネットの絵柄が忘れな草。そのほかにバイオレットとモーツァルトの小皿があります。
フルーツティーはデンメア製。ベリー系の酢っぱ味でさわやかでした。
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工房を後にします。
入る時にも気になったあれ…優雅な建物の左側に見えるグロテスクなコンクリートの建物は、ナチスが第二次大戦中の1943年に作った高射砲塔です。
連合軍の空襲を迎え撃つために、ベルリン、ハンブルク、ウィーンで計8基が建てられ、そのうち3基がウィーンにありました。
この高射砲塔、実は2塔で一組になっています。
右側の塔はレーダー等を備えた四角い「L塔」、左側の塔は高射砲を備えた丸い「G塔」だそうです。
工房の優雅な壁越しに見ると、その異様さが際立ちますね。
ウィーンの高射砲塔は、ヒトラーが重要建築物の防衛のために設置を命じたものです。
設置場所は、シュテファン寺院や旧市街を囲むように、北(アウガルテン)、南西(シュティフトカセルン)、南東(アーレンベルク)の3か所(計6塔)です。
建造された塔が全て現存しているのはウィーンだけだそうです。
ここアウガルテンの2塔は使われずに放置されていますが、ウィーンの他の2か所では、軍の施設、水族館、芸術作品用の倉庫等として使われているとのことです。
磁器工房の壁の向こう側に出ると、荒涼とした緑の中に立つ2基の塔。第二次大戦当時にタイムスリップしたようです。
ウィーンは、戦争後期に連合国の空襲を多く受け、3基の高射砲塔や迎撃戦闘機が応戦しましたが、1945年3月12日の空襲で国立歌劇場が破壊されるなど、被害は甚大でした。
4月2日からはソ連地上軍がウィーンに侵攻し、高射砲塔も応戦しましたが、13日にウィーンは陥落しました。
ヒトラーが自殺したのはその半月後の4月30日。ベルリン陥落は5月2日です。
ウィーンを占領したソ連軍はこの高射砲塔を破壊しようとしましたが、あまりにも強固でできなかったそうです。
このG塔は高さ54メートル。外壁は厚さ2メートル、天井部は厚さ3.5メートルのコンクリートで固められているそうです。
ウィーンの高射砲塔のことを調べているうちに、「ドイツ高射砲塔」という本があることを知り、読んでみました。↓
高射砲塔は、1940年の英空軍によるベルリン空襲に驚いたヒトラーが発案し、自らデッサンを描いて建設を指示したものだそうです。
本の表紙写真は、ヒトラーがデッサンした第1世代(ベルリンに3基、ハンブルクに1基)。第2世代(ハンブルクとウィーンに各1基)はもう少しコンパクトになり、第3世代(ウィーンに2基)はアウガルテンのような円柱状となります。
戦闘施設というだけでなく、空襲時の市民の避難場所でもあり、ウィーンでは8万人の避難民を収容したとも言われています。
また、文化財の避難場所、病院としても利用され、ウィーンでは、被災した軍需工場やウィーン市役所までもが引っ越してきたそうです。
戦勝後には中世様式に装飾され、ドイツ第三帝国のモニュメントとなる予定でした。千年残るものにするようヒトラーが指示したそうです。
実際、ウィーンの南東部にある1基は、マリアテレジア像の南西300メートルほどの地点(ホーフブルクとマリアテレジア像の延長線上)にあり、モニュメントとしての立地も考え抜かれています。
アウガルテンの廃墟も、戦勝モニュメントと考えると宮殿の隣にあることが納得できますが…装飾された姿を想像すると強烈な違和感を覚えます。1984のような世界でしょうか。
首都ベルリン(3基)、軍港や軍需工場が集積するハンブルク(2基)と並んで、古都ウィーンを3基の高射砲塔で守ろうとしたヒトラー。
彼はウィーンの何を守ろうとしたのでしょうか。
ウィーン美術アカデミーの受験に2度失敗し、浮浪者収容所などを転々として、ヒトラーが「最も過酷な人生の学校」と呼んだウィーン。
両者の関係は、非常に複雑ですね。
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第二次大戦の重い話題の後は、再び天使の歌声の話に戻りましょう。
アウガルテンの公園沿いの道を地下鉄駅に向かって歩いていくと、「ウィーン少年合唱団」の看板。
位置的には、最初に見た宮殿につながる入口に当たるので、やはりあのアウガルテン宮殿が合唱団の施設なのでしょうね。
ここでウィーン少年合唱団について少し思いを馳せましょう。
この合唱団は、1498年、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世(ハプスブルク家)がホーフブルクに宮廷礼拝堂を建設する際に、少年聖歌隊として設立したものです。
500年以上の歴史があるのですね。
1918年に帝国が消滅すると、庇護者をなくして解散しましたが、その後1924年に全寮制の私立学校として再出発したそうです。
今は私立学校なんですね。1924年といえば、アウガルテン磁器工房の再興も同じ年です。
この合唱団は、ハイドン、モーツァルト、シューベルト、ブルックナーという4つのグループに分かれて計100人程度が在籍しています。
ブルックナーは宮廷オルガニスト(合唱団の伴奏者)だったので名前があるのですね。
このうち1グループは常に海外公演に出ており、残りの3グループが毎週交代でホーフブルクの宮廷礼拝堂ミサに出るそうです。
そのほか、冒頭で見たMuThでの独自公演や各種レコーディングなどの音楽活動と勉強を両立させているそうです。
2000年代からは日本人団員も募集していて、実際いるそうです。遠い外国での寄宿舎生活、大変でしょうね。
コロナで活動もすっかり変わってしまったでしょうし、私立学校なので経営も大変と聞きます。心配ですね。
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アウガルテンの前の道は、オーベレ・アウガルテン通り。向かい側にはヨーロッパらしいくっついたビルが並んでいます。
ターボー・シュトラッセ駅から地下鉄でカールスプラッツに向かいました。
国立歌劇場の前にやってきました。
この日の午後は、ここから出発するマイバスというツアーでウィーンの森…ハイリゲンクロイツ修道院やマイヤーリンク礼拝堂を訪れます。
その様子はまた次回に。
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午前中のアウガルテンでは、ウィーン少年合唱団やウィーン磁器工房といったハプスブルク家に育てられた文化が帝国滅亡後もオーストリアの財産として復活した様子を知ることができました。
一方で、全世界が巻き込まれ、日本も当事者だった第二次世界大戦の悲劇の痕跡もそこに見ることができました。
歴史から学ぶことはまだまだ多いですね。
午後は、ハプスブルク家以前にオーストリアを支配したバーベンベルク家や、ハプスブルク帝国が崩壊を迎える中で自ら命を絶った皇太子ルドルフの軌跡など、さらに歴史の痕跡を追いたいと思います。
【今日のBGM】
・ミュージカル「モーツァルト!」
大阪公演千秋楽(リモート配信)
・ウィーン少年合唱団もそうですが、コロナで舞台芸術は大きな影響を受けています。
・ゴールデン・ウィークに妻と一緒に行くはずだったミュージカル「モーツァルト!」。アン・デア・ウィーン劇場を作ったシカネーダーも登場し活躍する作品です。
・この東京公演、緊急事態宣言で連休前から公演中止に。連休の唯一の予定がなくなりました。しかし、最近はリモート配信という便利なものもあります。6月の大阪公演がリモート配信されると知り、自宅で妻とのんびり観ました。
・リモート配信には無観客の山崎育三郎版と千秋楽舞台中継の古川雄大版があったのですが、最近昇り調子でもともと観に行く予定だった古川版にしました。この二人、朝ドラ「エール」で共演したのもとても楽しかったです。
・リモート配信は、遠くの公演でも、同じ値段で家族一緒に、リラックスして客観的に観ることができるのがいいですね。そのかわり、空気を通して響いてくる役者の熱情とか緊張感の共有とかはあまり期待できません。観る側は選択肢が広がっていいとも言えますが、作り演じる側はどうなのでしょうか。
・今回の公演は、古川さんのモーツァルトがとても繊細でよかったのと、クリスティーヌの木下春香さんの歌の安定度と美しさに感心しました。私もなじみの深い佐賀の鳥栖から生まれたこの若い実力派ミュージカル俳優は、まだまだ成長する予感がします。
・これからは、リアルとリモートの両面で様々な舞台の楽しみ方をしたいと思います。