先日、Twitterで「情報教育」に関して、手段と目的の関係性についてツイートしたところ、結構な反響がありました。
「情報教育」において、パソコンは「手段」であり、「目的」ではない。その辺のことを情報教育に長けた先生はよく理解しているが、強迫観念にかられて取り組んでいる不得意な先生の中には、履き違えている人が多い・・・といった内容のツイートです。
ほどなく、数人の方から同意する内容の返信をいただきました。
パソコンは、何かを調べたり、作ったりするための道具であるわけですから、当たり前といえば当たり前なのですが、こうした反響があるのも「情報教育=パソコンを覚えること」と考えている人が、少なからずいるからなのかもしれません。
そんなことを思いながら、ふと学生時代の先輩の言葉が頭に浮かびました。学生当時、私は一時期「研究者になろう。そのためにはたくさん勉強をしなければ・・・」考えた時期があったのですが、そんな話をその先輩にしたところ「そのロジックは間違っている」と指摘されたのです。
この場合、目的が「研究者」であり、そのための手段が「勉強」です。私にとって、何の疑問もない考えだったのですが、その先輩はいいました。
「研究者っていうのは、なろうと思ってなるもんじゃない。勉強や研究をしたいという目的があって、その結果として研究職という道を選ぶものだ」
当時の私には、よく意味が分からない部分もありましたが、今考えるとなるほどと思います。多くの優れた研究者は、自身の知的好奇心に純粋に生きた結果、「もう少し勉強したい」と思い大学院へ行き、博士課程に進み、果てには学者になるのだと思います。
この場合、目的が「勉強」や「研究」で、そのための手段が「研究者」という職業であるということになります。先ほどのロジックとは真逆ですが、こちらも成立しますし、むしろ自然のように思います。
「逆もまた真なり」を先ほどの「情報教育」に当てはめて、果たして成立するかどうか・・・。少し考えてみましたが、もし「IT機器を使いこなせるようになりたい」という目的に対する手段として、情報を調べたり、発信したりする人…もう少し言えば、「携帯ツールを使いこなしている俺って、かっこいい!」とか感じるために、やっている人がいるとするならば、あながち間違ったロジックではないのかもしれません。
もちろん、学校教育における「情報教育」に、このロジックを当てはめることはできませんが・・・
「情報教育」において、パソコンは「手段」であり、「目的」ではない。その辺のことを情報教育に長けた先生はよく理解しているが、強迫観念にかられて取り組んでいる不得意な先生の中には、履き違えている人が多い・・・といった内容のツイートです。
ほどなく、数人の方から同意する内容の返信をいただきました。
パソコンは、何かを調べたり、作ったりするための道具であるわけですから、当たり前といえば当たり前なのですが、こうした反響があるのも「情報教育=パソコンを覚えること」と考えている人が、少なからずいるからなのかもしれません。
そんなことを思いながら、ふと学生時代の先輩の言葉が頭に浮かびました。学生当時、私は一時期「研究者になろう。そのためにはたくさん勉強をしなければ・・・」考えた時期があったのですが、そんな話をその先輩にしたところ「そのロジックは間違っている」と指摘されたのです。
この場合、目的が「研究者」であり、そのための手段が「勉強」です。私にとって、何の疑問もない考えだったのですが、その先輩はいいました。
「研究者っていうのは、なろうと思ってなるもんじゃない。勉強や研究をしたいという目的があって、その結果として研究職という道を選ぶものだ」
当時の私には、よく意味が分からない部分もありましたが、今考えるとなるほどと思います。多くの優れた研究者は、自身の知的好奇心に純粋に生きた結果、「もう少し勉強したい」と思い大学院へ行き、博士課程に進み、果てには学者になるのだと思います。
この場合、目的が「勉強」や「研究」で、そのための手段が「研究者」という職業であるということになります。先ほどのロジックとは真逆ですが、こちらも成立しますし、むしろ自然のように思います。
「逆もまた真なり」を先ほどの「情報教育」に当てはめて、果たして成立するかどうか・・・。少し考えてみましたが、もし「IT機器を使いこなせるようになりたい」という目的に対する手段として、情報を調べたり、発信したりする人…もう少し言えば、「携帯ツールを使いこなしている俺って、かっこいい!」とか感じるために、やっている人がいるとするならば、あながち間違ったロジックではないのかもしれません。
もちろん、学校教育における「情報教育」に、このロジックを当てはめることはできませんが・・・