「バイリンガルで育てる決意〜YWCA」】1 | 「BLAST塾長日誌」

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BLAST塾長が、日々、気づいたこと、やったこと、勉強に役立つノウハウなどを、さまざまに残していきます。

2011-04-02から、書き始めて、それっきりになっていた文章を公開しようと思います。これも、【覚え書き】の意味もあります。

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これは、おそらくシリーズになると思います。

新しく「テーマ」も立てました。「BLAST塾長夫妻の子育て」です。

これは、今までほとんど話をしていない内容です。

また、なぜBLASTが「私塾」という言葉を使うかということも分かるかと思います。

BLASTを運営する私たちが、どうやって自分たちの子育てをしてきたかについてです。

結論を言うと、それは「極端に、実験的すぎる子育て」です。

その結果、誰の参考にもならない可能性があります。また、単なる「自慢」と取られかねないところもあります。

ただ、現代の日本の教育を考える上でも、何らかの参考になればいい、という思いで、ポジティブに始めることにしましょう。

おそらく、思いつくままに書きますので、話が飛ぶ可能性もありますが、その場合は、できるだけ新しいタイトルを作ることにしましょう。できるだけ、時間の流れにそって、書いていければと思います。

どこから、はじめましょうか。

80年代最後の年か、90年代の初頭のことになります。

いきなりですが、場所は、我が家のお風呂から始まります。

お風呂に入りながら、将来、子どもができた時の教育のしかたについて話し合っていました。

「景山さんとこは、子どもを国際学校で、育てたらしい」と、エッセイで読んだ内容を、ポロっと言ったのが、始まりです。

もうこの読者なら、ご存知かと思いますが、「景山さん」といえば、景山民夫さんのことです。景山さんのエッセイ「  」あたりで、読んだのだと思います。

そのときの千幸さんの反応は、どうだったのでしょうか。

子育てとしては、「選択肢の一つ」程度の反応ではなかったかと記憶していますが、実際、本人に確かめてみると、「  」ということらしいです。

その日は、それで終わりました。

教育方針としては「バイリンガルで育てよう」というのが、「戦略」だったと思います。

バイリンガルに育てるには、どうすればいいかと試行錯誤をしていたのです。

当時は、インターネットの環境もなく、現在のように、気軽に検索をかけて、様々なことを調べたり、体験談を目にすることもありませんでしたので、「試行錯誤」をするしかなく、そういう意味においても「実験的」と言えるでしょう。

当時、千幸さんは、インド人の方から、インド料理を習っていたのですが、その方に、「日本人は、これからは日本だけで生活をするのではなく、世界にもっと出て行くべきだ」「そのためには、少なくとも英語は必要」というようなことを聞いていたみたいです。

このことも、大きく影響して、「国際学校で育てる」という選択の可能性が、グッと現実味を帯びてきたようです。

実際に、子どもが生まれ、大きくなる段階で、千幸さんは、いくつかの候補の国際学校、その前段階の教育を施す場所を見つけてきました。

先のインド人の方からの紹介もあり、三宮にある「YWCA」が候補として、有力になりました。

「YWCA」の入学条件は、「おむつが外れていること」が、第一にあげられました。

当時、娘はまだ、2歳にもなっていませんでしたが、「YWCA」の外国人のためのナーサリー(保育園)に入ることになりました。「戦略」に基づく第一の「戦術」として、「YWCA」のナーサリーが選ばれたということになりますね。

ここでは、インドネシア人の女性が先生をなさっていました。

多少、なまりの強い方でしたが、それも気にせずに通うことになりました。

「通う」と簡単に言っても、場所は、60キロ以上も離れた場所です。

このあたりが千幸さんって、すごいなぁと思えるところですが、何と、彼女は毎日、車で送り迎えをしていました。

朝、送っていき、ナーサリーに入れた後、時間をつぶして、昼過ぎに連れて帰り、夕方からBLASTで授業をしていたのです。

今、こうやった書きながら、改めて、すごい生活していたなと思います。

私の方は、お昼は、私立高校で英語の非常勤講師として、頑張っていた時期ですね。

そうするうちに、1995年の1月に、阪神淡路大震災が起き、YWCAの建物自体は無事でしたが、授業が中断した状態になりました。

この間、娘は、家で用意した、教材で英語を学ぶことになります。



(2011-04-02 10:50:26執筆開始分)