本日の新聞の書評欄に「清張が昭和の時代の昭和という時代を照らし出す小説家だったとすれば・・・」という下りが有り唖然としました。私は清張が苦労しながら生活をしてきた中で様々な事件を見聞していく中で感じていたのは、昭和という時代の流れというような抽象的なものではなく、人間の心の奥に潜む本質的な欲というものを感じ取っていたのではないかと思います。清張の本は好きでもなかったので一冊も買ったことはありませんが、ラジオやテレビでドラマを見たことは度々ありました。そこで演じられていたのは、金銭欲・物欲・色欲・権力欲・名誉欲というようなものに固執する人間の悲しさというようなもので、見ていて侘しいとか寂しいとかというような印象ばかりあったと感じています。
清張が職業を転々とするなかで起きる事件を見聞し、事件の背景までを調べるうちに人間の心の裏に潜む闇に衝撃をうけたことが小説を書くきっかけになったのではないかと思います。
私は30年以上も昔に日曜のラジオの朗読番組を毎週布団に入って聞いていたことがありました。森繁久彌が清張の「或る小倉日記伝」を朗読するという番組で、布団に中で横になっていて耳元でラジオの音だけが聞こえてくるのですごく臨場感があり、今でも森繁久彌の朗読の声が忘れられません。それは朗読がうまいというだけには留まらず、その内容が余りにも悲しいという事でした。こういう自身の経験からも清張は昭和という時代性というようなものではなく、日本の社会の片隅でうごめく人間の心の奥底の何か感じていたのではないかと思います。「或る小倉日記伝」では主人公が障害者だったので戦前の日本では差別がひどかったというような解説も見受けられますが、それは一面だろうというのが私の感想です。
 
何で清張がここで出てきたかというと、これから書く或る企業のシステム開発で行われた行為が、清張が気づいた人間の裏面に潜む欲というものが見事に露出した事だろうと思ったからでした。
犯罪を公にするには被害者が被害届を出すか、検察官が起訴しない限り成立しないので、そういう行為とか対応が行われないと、何事も無かったように時が過ぎて忘却のかなたに置き去られてしまいます。
サラリーマンが自分は「会社のために仕事をしています」と月並みな発言をよくしますが、その会社の為と言うのは自分だけが得をして他人がどんな被害を受けようが無視をするというような場合があるかも知れません。彼らの言い分は、「そうしないと、自分にも被害がおよび会社のためにはならない様な事態が発生する」からです。現在ではそういう事を監査する仕組みとしてガバナンスというような仕組みを取り入れる事が求められていますが、東証に上場しているような会社でも、既定の書式に記入して終わりというような形だけの企業が大半と思われます。
東芝の業績粉飾事件は、社外の会計監査会社や社内のガバナンス体制にある監査委員が見つけたものではなく告発によるものでした。この事実は、企業犯罪は社内外の形だけの鑑査では見つからないと言うことを示唆しているようなものだと感じています。新聞の報道では社外取締役の充実とか書いていますが、そういう類の記事を読むにつけ何も分かっていない素人記者が書いたものをよくも記事にしたものだと笑ってしまいます。

私は自分が勤務していた会社で受注したシステム開発案件では、役員とその部下が犯罪行為と言うべきことを、会社の利益の為と言う御旗のもとに堂々と最後までやってのけたのでした。
このシステム開発は最初から最後まで微に入り細に入り見届けたので細かい経緯までを知り尽くしていますが、システム開発の途中で私は定年退職に追い込まれたので、途中からはこのシステム開発を受注した会社に派遣社員としてシステム開発の最後を見届けたのでした。最初は自分の顧客だったのが、途中から自分の勤務する会社になったという、何とも面白い経験をする事になりました。
その経緯は後ほどということになりますが、企業が侵す犯罪行為というのは清張が書いた人間の欲が裏に隠れ、如何にもお為ごかしした行為が企業に中で正々堂々と正義の如く行われていたというのは、東芝事件に通じるものがあると感じています。