その一)
昭和50年後半、埼玉県の桶川市にあった電気製品製造会社で、外資系コンピュータから当時勤務していた会社のコンピュータに買い換えてもらったお客様の話です。
コンピュータ導入後は不便ながら使用していたのですが、この会社の製品は輸出が主であったので円高になると途端に業績が悪くなり、ある日とうとう資金ぐりに行き詰まり倒産してしまいました。
元々小企業でしたので在庫管理も無駄が多いのではないかというので、コンサルなんかして在庫縮減とかの活動をしている時でした。
その二)
営業担当の私は当日直ぐにお客様を訪問してコンピュータの本体や端末に「これは当社資産です」と書いた紙をぺたぺたと貼るという作業をしました。お客様も仕方なく不快な行動を黙認していたと思います。
直後に銀行管理に入り、何とか再生できないかと試行しましたが結局仕事がどんどん無くなって清算ということになりました。元々は大地主だった社長は家一軒を残して全てを失ったという結末に終わりました、会社は20年程経営していました。
コンピュータは仕事があるので会社の残業務で最後まで使用していましたが、最後には持ち帰りました。
その三)
コンピュータ室要員は6人ほどいましたが、若い人は転職先がどんどん近場で見つかり退社していきましたが、課長だけはなかなか転職先が決まりませんでしたが最終的には関西の会社に決まりました。課長とお別れする日に餞別を渡したのは帰宅で混雑する高崎線の車内でした。こういう別れは悲しいというよりも無念という気持ちだったと思います。
昭和50年後半、埼玉県の桶川市にあった電気製品製造会社で、外資系コンピュータから当時勤務していた会社のコンピュータに買い換えてもらったお客様の話です。
コンピュータ導入後は不便ながら使用していたのですが、この会社の製品は輸出が主であったので円高になると途端に業績が悪くなり、ある日とうとう資金ぐりに行き詰まり倒産してしまいました。
元々小企業でしたので在庫管理も無駄が多いのではないかというので、コンサルなんかして在庫縮減とかの活動をしている時でした。
その二)
営業担当の私は当日直ぐにお客様を訪問してコンピュータの本体や端末に「これは当社資産です」と書いた紙をぺたぺたと貼るという作業をしました。お客様も仕方なく不快な行動を黙認していたと思います。
直後に銀行管理に入り、何とか再生できないかと試行しましたが結局仕事がどんどん無くなって清算ということになりました。元々は大地主だった社長は家一軒を残して全てを失ったという結末に終わりました、会社は20年程経営していました。
コンピュータは仕事があるので会社の残業務で最後まで使用していましたが、最後には持ち帰りました。
その三)
コンピュータ室要員は6人ほどいましたが、若い人は転職先がどんどん近場で見つかり退社していきましたが、課長だけはなかなか転職先が決まりませんでしたが最終的には関西の会社に決まりました。課長とお別れする日に餞別を渡したのは帰宅で混雑する高崎線の車内でした。こういう別れは悲しいというよりも無念という気持ちだったと思います。