その一)
入社して5年後には会社は坂を転げるように業績が悪化していきました。新しいプロジェクトへの取り組みが不足していたのと、予測できていた事態に対する備えができていなかったせいだと思います。
私の所属する部署もプロジェクトが終了すると新しいプロジェクトは無く、毎日が日曜日になり作業伝票も無作業とか試験研究とかしけ書けない日が続きました。
その二)
会社はコストを下げるために最初は嘱託社員から首を切って、それから出向社員を親会社に返上して社員の削減を行なうことになりました。年配者は親会社との縁が切られていましたので、30歳までの若手が俎上に上がりました。当然ながら不平不満分子8名と役に立たない年配者2名がリストアップされ、私の名前もありました。
その三)
親会社からは営業部門(当時は販売部門)の要員が欲しいということでした。技術者として会社に入社したのですが、全く違う部門へ異動することには不安があったのは当然でしたが、閉鎖された工場という場所から開放されることのほうが嬉しくて晴々した気分でした。
部長は私のことを頭にできたたんこぶが取れたように喜んで「良かった良かった」と言っていました。
しかしながら、律儀な部署でしたから送別会をしてもらった筈ですが、そういう記憶は全く無いので多分嬉しさでそういう些細なことは忘却のかなたへ行ったのだろうと思っています。
入社して5年後には会社は坂を転げるように業績が悪化していきました。新しいプロジェクトへの取り組みが不足していたのと、予測できていた事態に対する備えができていなかったせいだと思います。
私の所属する部署もプロジェクトが終了すると新しいプロジェクトは無く、毎日が日曜日になり作業伝票も無作業とか試験研究とかしけ書けない日が続きました。
その二)
会社はコストを下げるために最初は嘱託社員から首を切って、それから出向社員を親会社に返上して社員の削減を行なうことになりました。年配者は親会社との縁が切られていましたので、30歳までの若手が俎上に上がりました。当然ながら不平不満分子8名と役に立たない年配者2名がリストアップされ、私の名前もありました。
その三)
親会社からは営業部門(当時は販売部門)の要員が欲しいということでした。技術者として会社に入社したのですが、全く違う部門へ異動することには不安があったのは当然でしたが、閉鎖された工場という場所から開放されることのほうが嬉しくて晴々した気分でした。
部長は私のことを頭にできたたんこぶが取れたように喜んで「良かった良かった」と言っていました。
しかしながら、律儀な部署でしたから送別会をしてもらった筈ですが、そういう記憶は全く無いので多分嬉しさでそういう些細なことは忘却のかなたへ行ったのだろうと思っています。