その一)次年度の新入社員
私が入社して2年目に、同じ職場に地方大学を卒業した純朴な男が入社してきました。親会社からの出向者でした。体はごつくて言葉づかいも少なく大人しいので、私は親近感を持っていました。
新製品も完成に近づき仕事も佳境に入る頃でした。その男の担当はアンテナの特性を測定するというもので、試作したアンテナから出る電波を来る日も来る日も測定していました。
電波の測定は戸外の鉄塔の上で行うので、夏は暑い冬は寒いという体力的にも過酷なものでした。それを一人でこなしていたのですが、誰もそういう仕事に対して慰労するということはありませんでした。私はその男が冬に凍えているの見て心配しましたが、優秀な理系出身者ばお高くとまっている連中ばかりだったので、そいう担当者を可哀そうだとは見えなかったのだろうと思いました。よくある理系人間の冷たい面があった職場ということです。
それに加えて上司の課長は、新婚ほやほやでそういう人間の機微に鈍感だったらしく、その男がどういう気持で訥々と仕事をしているのか分からなかったのかも知れません。
独身寮では私の部屋の隣に住んでいましたので、時々は様子を見に行くと夕飯は食べずに乾き物をつまみに酒を飲むという生活をしていました。体に悪い生活だと助言しても一向に聞く気配もなく、暫くして会社に出社しなくなったのでした。

その二)男の失踪
職場では突然に社員がいなくなり大騒ぎでしたが、幾ら待ってもその男は出社しませんでした。人事部から実家に問い合わせても帰っていないというので、家族も会社も困惑するばかりでした。
半年もすると独身寮の荷物は実家へ送り、人事部の担当者が実家まで行って退社手続きをするというようなことになりました。
失踪してから1年以上も経過して皆がそういう事実をすっかり忘れた頃に、この男が実家に舞い戻ったそうです。事情を聴くとふらっと独身寮を出て日本の一番果ての場所に行って新聞配達などをして生活していたという後日談が伝わりました。

その三)男の言い分
この男の上司の課長は、顔はでかいが口は小さい、如何にも気の小さいという風貌でした。それに加えて学会への論文掲載なんかに精を出すという、自己PRに熱心な人間でした。失踪した男は「俺もあんたの仕事を手伝っているじゃあないか」と言いたかったのではないかと思ったのでした。