2015年 巻頭言 自らの氏(うじ)を知るということ | 広島から 中国総領事館 誘致に待ったをかける

広島から 中国総領事館 誘致に待ったをかける

広島に県、市、県議会、市議会、経済団体を挙げ、中国総領事館を誘致する計画があります。
経済にばかり走り、国家安全保障を考えない誘致計画に警鐘を鳴らします。

神社検定の公式テキスト『神社のいろは』20ページにこうある。違和感を感じる人は少なくないはずだ。

神社を氏神さま、産土さま(神)、鎮守さま(神)と呼ぶこともあります。氏神は、もともと氏族が共同で祀った祖先神または守護神のことです。産土神は人々が生まれ育った土地の守護神です。鎮守神は国や地域、寺院、王城など一定の区域・場所を守護する神のことをいいます。しかし、これらの神様は時代の変遷とともに、同じ意味に使われるようになりました。産土神の鎮座する周辺の一定の地域に居住する人々を産子といいますが、今では、氏神、氏子という言い方が一般的です。

まさに、この部分、
「これらの神様(すなわち、氏神、産土神、鎮守神)は時代の変遷とともに、同じ意味に使われるようになりました」
ここに、日本人が抱えているアイデンティティーの危機が表れている。

一族がずっと同じ地域に居住し、自分自身もそこで生まれ、生まれてから引っ越さず、同じところにとどまっているというのであれば、氏神、産土、鎮守が、全て重なるということはある。しかし、それぞれが意味において同じになるわけはない。神社検定の教科書は、それぞれの神を正しく区別して説明したその直後に「同じ意味に使われる」と論理的な矛盾を呈している。

なぜ、こんなことになったのか。

理由の一つは、自らの「氏(うじ)」がわからなくなった日本人が多数を占めるようになったためだ。

氏神を敬うには、まず自分自身の「氏」を知っていなければならない。氏神がわからないと鎮守との区別も曖昧になってしまう。氏神と言えば参拝するのは氏子だ。もちろんどの神社も氏子以外が参拝して良いのだが、基本的には氏子が神社を支える。引っ越した途端に、あなたはこの神社の氏子になりました、と言われて「ああ、そうですか」と納得する人がどれだけいるだろうか。

こんな経験をしたことがある。広島に越して来て、広島県神社庁に電話で尋ねたときのことだ。
ぼく「中区の⚪︎⚪︎町に住むことになりました。氏神様はどこになりますか?」
神社庁「ちょっと待ってください。調べます。あー、そこなら白神社です。」

この時、問い合わせながら何か「おかしいなー」と思ったのだが、後からじっくり考えてみると、ますます変だ。

質問する側は住所で氏神が決まることが当たり前だと思い、回答する側も住所から神社を特定している点で、一致して認識がズレている。現在、神社庁は、住所によって氏神が決まると教えているのでそれに従った。事務的には間違いはない。神社庁が言っていることは歴史的な経緯を踏まえたもので、勝手に言っているわけではないということも承知している(cf.「氏子調」の「行政単位と郷社」)が、それでも筋が通らないものは通らない。

住所だけから神社が特定できるのであれば、それは氏神ではなく「鎮守」だ。

それに、うちには別に歴とした氏神がいる。
先祖を辿ると、三河石川氏、さらに遡り、石川源氏、そして河内源氏へと繋がる。河内源氏であれば氏神は八幡神。武士が登場した平安時代からいつの時代も、先祖は一族で八幡に戦勝祈願をして戦場へ出かけていた。

wikipediaの、壺井八幡宮「歴史」の項に記されているように、
源頼義は、河内源氏の東国進出の拠点として、鎌倉にも石清水八幡宮勧請した(鶴岡若宮。後の鶴岡八幡宮。)。頼義の5世孫である源頼朝が鎌倉幕府を開いた後は、河内源氏の総氏神は壺井八幡宮から鶴岡八幡宮に移り、壺井八幡宮は河内源氏の祖廟にして当地に土着した河内源氏である石川源氏の氏神となる。

つまり、前九年の役から戻った頼義が、1063年に鎌倉に鶴岡若宮を石清水八幡から勧請し、翌1064年に父の代から居住している石川荘の香呂峰(漢文に出てくる香炉峰ではなく、香呂峰。現在の大阪、羽曳野市の一角にある)にも八幡を勧請した。鶴岡若宮は頼朝が幕府を開き鶴岡八幡宮に発展することで河内源氏の総氏神になったので、香呂峰に勧請された八幡は、河内源氏の本貫を継承した石川源氏の氏神となり、今日の壺井八幡宮に至っている。
これが氏神である。

先祖自慢をしているわけではない。生まれは本人の努力の外にある。しかし、今日、知らずして、この国を席巻するグローバリズムの餌食とならないためにも、日本人でありたいと思う人は誰でも自らの氏を知っているべきなのだ。

中国地方には、苗字を聞いただけで、この人は毛利の流れではないか、浅野の家臣の出ではないか、黒田官兵衛の重臣の裔ではないかなどと、察しがつくことがある。たとえば大江という苗字。源氏の場合、氏がそのまま苗字にはなっていないのに対して、大江は氏が苗字になっていて見当をつけやすい。毛利元就を出した毛利家の氏(うじ)は大江氏(おおえし・おおえうじ)である。中国地方の大江さんは、大江氏の裔である可能性がある。

しかし、当の本人に訊いてみるとまるで関心がない。親から聞いてもいないし調べたこともない。これでは日本の文化は失われていくばかりだ。

自らの氏を知るということは、そのこと自体、日本の歴史と文化の継承を担っていくことを意味する。逆に氏を知らず、子供に伝えずに死んでいくのであれば、知らずして日本の文化を消し去っているのである。

三島は、「戦後25年を振り返る』と題した随想を次のように締めくくっている。戦後70年を迎える今年、ぼくは三島が45年前に予言的に語ったことに、恐怖の念を抱きつつ同意する。

「・・・私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。」(1970年(昭和45年)7月7日付産経新聞夕刊掲載 「戦後25年を振り返る』)

その人自身の生まれ育った蓄積に加え、負っている背景、先祖が作り上げた歴史や文化によって日本人はできている「はず」である。しかし、今、ぼくは、この表面的には豊かだが、土台のぐらついた土地に、突然、移植されて湧き出てきたような人たちに囲まれて、自分だけ外国人になったかのように感じている。

ぼくは清和源氏の家に生まれ、日本の歴史を自分の家の歴史として学ぶ。日本史を遡れば、古い時代になる程、先祖ばかりが出てくる歴史になっていく。国内旅行をすれば先祖が造った城一族がお参りした神社、そういうものが真に多い。武家であるからこそ、今日的な意味で、武士道とは何かということを問いかけてもみる。氏を自覚しない人たちとは、見えているものが根こそぎ違っている、と思う。


さりとて、嘆いてばかりもいられない。

気を取り直してここは提言の一つもしてみよう。

神社庁は広告の仕方を変えてみてはどうだろう。「氏神を参拝」と言うから、聞く人々に「氏神なんか知らない」という気持ちを起こさせる。それゆえ神社から足が遠のく。ここは「あなたを守っている鎮守様がいます」などとキャッチコピーを打って、とりあえず身近な神社へ誘えば、普段からもっと多くの人が神社に足を運ぶのではないだろうか。やがて氏神に関心を寄せ、自らの氏について考え始める人も増えていくのではないだろうか。

ぼくのように氏神がはっきりしている家の者でも、今日それは遠く、おいそれとは行けない。しかし、鎮守であれば気軽に寄れる。

そういうわけなので、長くなったことだし、そろそろ、鎮守様に新年のご挨拶に参ることにいたそう。 

平成27年 元旦 記