何年間もの間、頭にこびりついて離れない事柄がある。問題の解決はすでに不可能となっており、考えるたびに気が重くなる。しかも事態は局面を変えて年々悪化の度を深めている。
永野修身の言は、近年、日本のかつての将兵たちの死が決して無駄ではなかったということを伝えるために、たびたび言及されている。
「戦わざれば亡国と政府は判断されたが、戦うもまた亡国につながるやもしれぬ。しかし、戦わずして国亡びた場合は魂まで失った真の亡国である。しかして、最後の一兵まで戦うことによってのみ、死中に活路を見出うるであろう。戦ってよしんば勝たずとも、護国に徹した日本精神さえ残れば、我等の子孫は再三再起するであろう。」
しかし、この言葉が貫徹された結果が極めて厳しいものとなったことについては、もっと語り伝える必要がある。否、まだ語られてなどいない。
多くの英霊が、妻や娘、また婚約者に宛て「あなたを守るために喜んで死んでいきます」と記し亡くなられた。結果として、3年半余りの間に230万の日本人将兵が戦死した。
昭和20(1945)年の酷さは筆舌に尽くし難い。世界の近現代史において類例をみないほどである。
この年、東京大空襲では一晩で10万人以上の民間人が虐殺、地方の大都市もことごとく空襲され、一都市で数千人から数万人単位の民間人が殺された。地方都市の爆撃の極みが広島・長崎の原爆であり、両都市だけで、この年の末までに21万人以上が原爆の直接効果で死んでいる。
特攻はとりわけこの時期に多く行われ、若い者では、16歳、17歳であり、女性の手を握ることもなく逝ってしまわれた。婚約者を抱くことなく逝った者もいた。
ここまででも十分凄惨を極めているが、ぼくの頭を支配し、鬱になりそうなほど打ちのめし、昭和20年をいっそう残酷な年として際立たせているのは、むしろここからだ。
8月15日、敗戦を迎え、アメリカ軍が進駐してくると、神奈川県下では最初の10日間で1,336件の強姦事件が発生した。時間が少しさかのぼるが沖縄戦では米軍上陸後、推定1万人がレイプされたという記録も残されている。内務省は、「日本の婦女子の操が進駐軍兵士らによって汚される恐れがある。それならば性の防波堤を作って一般婦女子を守りたい、との思惑から」政府公認の売春所を設立してしまう。他に生活の術の無い戦争未亡人や子女が溢れ、都内だけで約1600人、全国で4000人の慰安婦が働いた。
(wikipedia 特殊慰安施設協会 参照)
『西尾幹二のインターネット日録』
には、次のように記されている。以下抜粋。
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・・・元都立大教授、東洋大学長の磯村英一氏は、敗戦のとき渋谷区長をしていて、米軍司令部(GHQ)の将校から呼ばれて占領軍の兵士のために女性を集めろと命令され、レクリエーション・センターと名づけられた施設を作らされました。市民の中には食べ物も少なく、チョコレート一枚で身体を売るような話も広がっていた時代です。磯村氏は慰安婦問題が国際的話題になるにつれ、自国の女性を米軍兵士に自由にされる環境に追いやった恥を告白せずにはいられない、と懺悔しています(「産経新聞」平成6年9月17日)
・・・パンパンとかオンリーという名で呼ばれた「日本人慰安婦」が、派手な衣裳と化粧でアメリカ兵にぶら下がって歩いていた風俗は、つい昨日の光景として、少年時代の私の目に焼きついています。米軍によるこの日本人慰安婦の数はおよそ20万人いました。
『りべらる』というカストリ雑誌には、若い女性が特殊慰安施設に連れて行かれて、初めての日に処女を破られ、一日最低15人からの戦場から来たアメリカ兵の相手をさせられ、腰をぬかし、別人のようになったさまが手記として残っています。
「どこの部屋からも、叫び声と笑い声と、女たちの嗚咽がきこえてきました。」「二、三ヵ月の間に病気になったり、気がちがったりしました。」「これは何年にもわたって、日本全土にわたって行われたことの縮図だったのです。」(昭和29年11月号)
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英霊たちは、日本の女性たちを守ろうとし自らの命を差し出したが、それがために戦後、彼女たちは後ろ盾を失うこととなり、残された未亡人や、娘たち、婚約者たちは処女のまま、慰み物として米兵に差し出されることとなった。本来、国家を守った英霊たちの妻、花嫁になるはずの女性たちが、その夫や父や婚約者を殺した敵兵の売春婦になったのである。しかも英霊たちも残された女性たちも、日本という国家の求めに応じて、自分の身を投げ打ったのである。
この事実を思うとき、ある聖書の言葉を思い出さずにはいられない。
「あなたは子山羊をその母の乳で煮てはならない」
(出エジプト記23章19節、申命記 14章21節 新共同訳)
子供を養うための母の乳でその子供自身を料理するような秩序の錯誤と、無慈悲な行動とを戒めたものである。
いわゆる“従軍慰安婦”に関し、軍による強制連行の証拠がないということを世界に向かってはっきりと主張しないことにより、日本政府は、英霊と、英霊を捧げた上に自らをも捧げ尽くしたご遺族に対し、追い打ちの責め苦を与え続けている。これは国家の裏切りである。
この国の かく醜くもなりぬれば 捧げし命 ただ惜しまるる
22歳で夫を国に捧げ、子供たちを育てた後、92歳になった女性が人生の終わりに近づき、詠まずにはおれなかった歌である。
日本政府よ、この屈辱の上に、さらに何を恐れるのか。
最後に、今月、靖国神社の社頭掲示になっているご英霊の遺書の結びを紹介して終わる。
陸軍大尉 望月 重信 命(みこと)
昭和十九年五月二十二日 フィリピンにて戦死
長野県 更級郡 篠ノ井町出身
三十五歳
・・・然し、私達をして死に甲斐あらしむるか否かは、あとに残られた皆様の責任であります。今後まだまだ大いなる、それこそ非常なる艱難が国家の上に、皆様の上に、必ず降りかかってくるでありませう。その時になって、どの様な苦しいことがあっても、皆様は決してへこたれたり、悲鳴を上げるような事があってはなりません。どうかこの事をこの社前におきまして、くれぐれもお願いいたしまして出発のご挨拶といたします。・・・
昭和十四年五月一日