パンダ ー どのように外交に利用されてきたか | 広島から 中国総領事館 誘致に待ったをかける

広島から 中国総領事館 誘致に待ったをかける

広島に県、市、県議会、市議会、経済団体を挙げ、中国総領事館を誘致する計画があります。
経済にばかり走り、国家安全保障を考えない誘致計画に警鐘を鳴らします。

(当ブログは2012年4月1日より休刊しています)

以下は、先月仙台で行なわれた「仙台にパンダはいらない!デモ行進」支援のために、家永真幸(いえなが・まさき)著『パンダ外交』を基に、my日本で書き下ろしたものの転載。

(1),(続く)となっているがアクセス数が少なかったため、続きは書かなかった。

http://sns.mynippon.jp/?m=pc&a=page_fh_diary&target_c_diary_id=358160
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4/21(土)に行なわれる「仙台にパンダはいらない!デモ行進」を支援します。
<宮城県イベント> 反パンダデモ
http://sns.mynippon.jp/?m=pc&a=page_c_event_detail&target_c_commu_topic_id=20439

広島には、友好都市協定を通し、四川省、重慶市より、レッサーパンダやキンシコウを始めとする多くの動物がすでに入ってきています。

安佐動物公園「国際的な動物交流のリスト」
http://www.asazoo.jp/asazoo/summary/international.php

重慶と他の姉妹提携都市との交流量、扱いの違いを比較してみてください。広島市が他の都市に勝って、重慶市(友好都市締結当時は四川省内)と深い関係を築いてきたことがわかります。

今のところ、広島市へのジャイアントパンダ誘致の動きはありませんが、広島県がパンダの生息地である四川省の友好県であることから、安佐動物公園の国際交流動物リストに、いつジャイアントパンダが追加されるかわかりません。中国総領事館誘致活動が行なわれているという点においても、仙台が置かれている状況と類似しています。仙台のパンダ誘致は、広島にとっても他人ごとではありません。

そこで、4/21(土)に行なわれる「仙台にパンダはいらない!デモ行進」を前に「パンダ外交」についてまとめてみることにしました。

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パンダ ー どのように外交に利用されてきたか(1)

レッサーパンダは1820年、ヒマラヤで発見され、当初、これが「パンダ」という名で呼ばれていた。その後、現在ジャイアントパンダと呼ばれるようになる動物が1869年に(現在の四川省で)発見された。この一帯にはキンシコウなどの希少動物も暮らしている。

最初は熊だと考えられたが、解剖学的な特徴がパンダ(レッサーパンダ)に類似していることから、ジャイアントパンダと呼ばれるようになる。一方、もともとパンダと名付けられていた方のパンダは、混乱を避けるため「レッサーパンダ」「レッドパンダ」と呼ばれるようになり現在に至っている。

「パンダ」という言葉には、「笹を食べるもの」を意味するネパール語に由来するという説があるが、その語源ははっきりとはわかっていない。「パンダ」は日本語や英語圏における呼び名であり、中国語は1941年になってやっと「熊猫(発音は標準語で「シォンマオ」)」に統一された。「熊猫」という語は、一時期パンダを指すのに英語圏で使われた「キャット・ベアー」の翻訳であり、1940年前後に中国に登場。それまで中国では、動物学会の間でさえ複数の呼称が乱立しており、決まった呼び名がなかった。1937年、アメリカの動物園では、中国から連れ帰ったパンダが公開され、ブームまで起きていたのに比べ、原産地の中国では、パンダに対する認識が遅れていたのである。

名称統一の動きと相前後して国民党政府はパンダの重要性に気付き始め、1939年、地元、四川省政府が中央にパンダの禁猟を申し入れ、これを受けて、中華民国外交部はついにパンダの禁猟を各国に通告する。この結果、1939年11月にシカゴに渡ったパンダを最後に、外国人はパンダを自由に中国国外に持ち出せなくなった。

この珍獣を中国が外交目的に利用したのは1941年。背景には日中戦争があった。当時、中華民国は首都南京を攻略され、苦境に立たされていた。

1941年夏にはニューヨークにパンダは一頭もいなくなっていた。1941年9月12日、ニューヨークタイムズが中国からニューヨークのブロンクス動物園に新たなパンダが贈られると小さく報じる。11月9日、宋靄齢(そう・あいれい)、宋美齢姉妹が臨時首都重慶に記者を集め、パンダのペアの贈呈を正式に発表した。(特に宋美齢は英語を流暢に使いこなし、米中を繋ぐ重要人物だった。アメリカ人からの好感度が高く1927年12月の蒋介石との婚礼を、ニューヨークタイムズが一面で報じている。その後もフランクリン=ルーズベルトとその妻エレノアと親密な関係を築き、大東亜戦争期の対日政策が中国に有利になるよう誘導した。)

1941年12月、パンダは真珠湾攻撃による負傷者移送の第一便と共に、サンフランシスコに到着した。

近年、南京で公開された中国国民党の内部文書によって、宋美齢のパンダ贈呈が綿密な計画に基づいて実行された対米宣伝活動であったことが明らかになった。立案したのは、国民党の部署、国際的なプロパガンダ(宣伝戦)を担当する「中央宣伝部国際宣伝処」。蒋介石の妻、宋美齢はその中の重要人物であった。

一見、政治・外交とは直接関係なさそうな「子ども」を強く意識した戦略が取られた。「全米児童によるパンダの命名大会をラジオで放送」「パンダのおもちゃを製造して、クリスマス商戦に備える」など、アメリカの民意を掴むために、マスメディアと子どもが利用された。

(続く)

参考:家永真幸(いえなが・まさき)著『パンダ外交』(2011年 メディアファクトリー新書)

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◎ 家永真幸氏の思想的な立場について。

資料は、かなりの程度、家永氏の著書に依存しています。パンダを中心としたものでありながら、最後まで一度も「チベット」への言及がありません。著書の「はじめに」には、尖閣諸島での衝突事件に触れ、次のように記されています。

「・・・これらの報道に接した多くの人が、中国の態度の強硬さに違和感を覚えているようだ。しかしパンダ外交の歴史をひもとくと、中国は厳しい国際環境のなかで長い時間をかけて外交手腕を鍛えてきたことがわかってくる。彼らの態度を単なる『傲慢さの表れ』などと解釈してしまうことは、日中両国の友好を願う人にとってはもちろん、日本の国益のため中国に対抗すべきだと考える人にとっても、まったく無益だろう。一見、傍若無人に見える中国の外交政策の数々は多くの場合、実際には国際情勢を冷徹に分析したうえで展開されていると見るべきだ。・・・」


◎ 著書の中で「太平洋戦争」となっている部分は、意識的に「大東亜戦争」と書き換えを行ないました。「中国」は「支那」とせず、そのまま使用し、読み手が中華人民共和国と取り違えないよう「中華民国」と略さずに記したり「国民党」を補った部分があります。わかりやすくするため構成はこちらでかなりいじりました。
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「仙台にパンダいらない」借り受け反対の抗議デモ(12/04/21)
http://www.youtube.com/watch?v=whby-cFwzNI